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2011年3月21日月曜日

予知能力。

事故に遭う前にそれを逃れたということは私の人生の中に多々ある。
前回に書いた地震のようなことである。9•11はその日に行く仕事を前日にNYに行って終えていたので、NJにいた。
ロスの地震、阪神の震災、いずれも私がそこを離れて一年後のことだった。といったような偶然のお話。

私に水難の相があると書いたことがなかっただろうか?
13年前にフランクアンドリューという名の知れた易者に見てもらったことがある。彼の言ったことの90%は事実となった。今は後の10%が実現するのを待っているのだが?!
彼は私の水難について触れた。そして、確かに私には水難の相があると思う。

引っ越して2年目から、春先の水の被害が始まった。雪解け水が水路を作り、壁からしみ込んだり、割れ目から大量の水が地下に入り込むようになった。
2003年に日本に1ヶ月も帰るとなれば、何とかしなければならなかったのは地下の水の始末であった。だからフレンチドレインと呼ばれる工事を春先にした。家に入り込む水が一カ所に溜まるように水路を作り、ポンプで水を下水に送り込む工事である。ポンプが動いている間は全く問題がない地下である。ポンプの寿命は各家の状況によるから、業者もいつ新しいポンプに換えなければならないかとは言ってくれない。

この工事から4年目。
一月の半ばから私は母の危篤で日本にいたが、その年の冬は暖かった。コートなしでもオッケーだった。アメリカも暖冬でスキー場に雪がなかった年なので、スキー気違いの息子も私もこの冬のスキーについては諦めやすかったかもしれない。
けれど、息子と私は例年通り息子の誕生日をバーモントでスプリングスキーと言う行事は決行することにした。いつもスキー場の閉まる頃に行く。4月半ばの息子の誕生日が丁度その頃なのである。雪にスキーに感謝して私達の冬を終えるのである。

このスキーに行く前の日に、テレビでタイの津波のことを映画化したものを放映していた。一部、2部に分かれている話を一気に放映していたから、私は半日、この映画を見ていたと言っても過言でない。
この映画のせいで洗濯をしたものを乾燥機にいれるのをすっかり忘れていた。
次の日の朝、地下に行くとなんと私の地下は津波状態、水浸し。30cmくらい。
母が危篤で日本に帰る2、3日前にようやく私の仕事がプリントされてきてそれらを地下の床に置いたままだった。半分以上は水に浸かってしまった。
フレンチドレインの業者に連絡をいれるとすぐに来てポンプを取り替えてくれたが、このパンプのブレーカーは別にしないと危ないと言われた。次はエレクトロ二シャンに来てもらわなければならない。
ラッキーなのは双方ともすぐに来てくれたことである。
最もラッキーなのはこの水害がバーモントに出かける前に起こったことである。行っている最中なら30cmの水浸しでは済まなかったに違いない。

この水難ではスキーに行っている場合ではないと思ったものの、家にいたからといって私に何が出来る訳でもなかった。水は新しいパンプが吸い取ってくれるのを待つだけ。
この大量の水がはけないと危険で電気の仕事はできないと言うエレクトロ二シャンはガレージをあけれるようにしておいてくれたら、水がはけた頃、うちに来てブレーカーを別にしてパンプの電源をそちらからひけるようにしておくというので、彼とは過去に何度も付き合いがあるし信頼出来るし、彼にすべてを託して、私達は予定通りスキーに行くことにした。
私は地下の被害をただ見ていても仕方がないのである。

私達はこの日の夜中10時頃、うちの犬も連れて、ストラトン、バーモントに向かった。一番古いロッジのアパートメントタイプの部屋なら犬も連れて行けると分かったのもはこの年が始めてだった。ミッドナイトを過ぎ、バーモントに入った頃から、雪が降り始めた。それはそれは奇麗な雪だった。雪は降り続いた。
夜中の1時に着いて私達が貰った部屋は広いキッチンに広いリビングルーム,二部屋のベットルーム、古いけれど凄く広かった、犬もルンルンであった。
フレッシュスノー、広い部屋。うちの家が水害であることなんか、見なければ考えもしなかった。ただ、その状況に感謝し、私達は一冬分のスキーを2,3日で楽しんだ。私は死んだ母が私にくれたこの雪に感謝した。
本当に暖かい冬だったので、あれは奇跡の出来事だったと私は今も思っている。

あの水害以来、パンプを春に定期的に換えることに神経質である。去年、あれから2年。
ポンプが潰れると思ったので、業者に電話してポンプとバックアップパンプの値段を聞いた。
バックアップパンプを取り付けないと、停電になるとまた水浸しの被害にあってしまう。
バックアップパンプは品切れで2週間待たなければならなかった。2週間は潰れないことを期待して、バックアップパンプと一緒にパンプを換えようと思って、パンプを換えるのを待つことにした。ところがその2日後、パンプは潰れ、再度、私の地下は水浸しになったのである。
業者に電話すると、受付の彼女は勿論私のことは覚えていて、こうなることを予知していたみたいねと言った。
すぐに来てくれないと増々水嵩が、、、と言ったら、2時間で来てくれた。
前回のことがあるので、多くも物は床上げで置いてあったので被害は前に比べると知れていたが、それでも濡れたものが乾くまで、捨てなければいけないものも沢山出て来るし、なにかと後は大変なのだ。
こんな思いは何度もするものではない。

今年は春が早かった。いつもは4月なのに今年は3月初めに雪解けして、しかも今年は雪が多かったから大量の水が地下を走っているようだった。水を吸い取る回数がかさむに従ってポンプの状態が気になった。
まだ1年も経っていないのに、私の予感は”パンプが潰れる”だった。
その次の日に停電があった。
去年はポンプが潰れて取り替えにきてもらったとき、バックアップパンプはまだ品切れだったから、結局設置しなかった。だから停電が長ければ水浸しなるのである。停電は2時間程だったが、電気が戻った後もパンプが動かなかった。
水を自分でかき出している1時間後、急にパンプは動き出した。
それもあって、パンプが潰れると言う私の予知は増々強くなった。

すると、日本に津波が!!!!!!!!
津波と私の地下の水浸し。

直ちに業者に電話をした。けれど潰れていないパンプは換えれないと言い切るのである。
但し、バックアップシステムは取り付けれると言う。私はすぐに予約した。
その2、3日後に業者が来て取り付けてくれた。ほっ!
彼はメインパンプはちゃんと動いていて潰れないと言った。

私は息子に、
これで水浸しの心配はもうないけれど、もしポンプが潰れたら、私はサイキック。
と、言った。
息子は私が言ったことが現実になったということを、沢山経験している。
悪い予感がしているのにそのまま継続してしまうと、その予感通りになるということが息子については、何度もある。あの時に無理矢理でも辞めさせておけばということが、幾つかあった。だから、息子には私のサイキックは冗談でない。

さて今回は?
その2日後、メインのパンプは潰れたのである。
プロが潰れないと言ったのに潰れたのである!
メインポンプは新しくなり、バックアップ装置もついた私の水難の地下は今はパーフェクトである。
しかも、一年以内に潰れたパンプは保証期間以内で支払いもしなくて良かった。

津波と私の地下の水害、変な繋がりだが、確かに繋がっていた。

私の地下が平常の状態になると、
CNNが消息情報をグーグル出来ることを教えてくれた。それに従って、私はついに私の友達の消息をつきとめた。ご主人が居酒屋をなさっていて、お友達が彼の消息を知りたいとファイルされたとき、彼の特徴とお店の名前が記録されていた。それはまさに私の探している人のようだった。そのお店をグーグルするとお店のブログも書かれていることから、そこに辿り着き、無事ですと書かれたブログを読んだ。
そしてメールを送り、昨日、メールが返ってきて、ご家族全員の無事を確認した。
本当に良かった!

前回のブログの中の、彼女がこう言うに違いないと書いた言葉は、私の想像だけではなかったようだ。

私の予知能力は確かにあるようである。そんな気がしたら、人が信じなくても私は自分の予知能力を信じて、それを避けるように努力すれば、トラブルを避けれるということも分かった。

2011年3月17日木曜日

どうかご無事で。

私の息子の同級生だったことから友達になった家族が2003年の冬に日本に帰った。ご主人の里が仙台だったので、九州人の彼女は仙台に住むことになった。
10年ぶりに私が日本に帰国したのは同じ年の夏。両親の里、信濃大町に父の実家がある。父の兄が土地を継いでいる。そこに父を埋葬したので、基本的には私の家族は信州に戻ったことになる。3年前に亡くなった母も今は里に戻った。私もここに生まれ3年住んで大阪に移った。だから、私の出身地は長野、信濃大町です。
あの頃はまだ叔父も惚けずにしっかりしていた。
信州の後、仙台に帰った友達の家族に逢って、東京で帰国と予定していたが、信州を出る前の日に、”仙台に地震”と速報が入った。
彼女が、来てくれるのは凄く嬉しいけれど、言っておかなければならないことがある。仙台に地震が来るといわれていると言う。
”私達が行くたった二日に地震になるはずは無いわよ。”と笑ってはね除けたが、なんと、本当に地震の速報が!
大雨続きで地面が緩んでいるところにあった地震だったので、被害は大きいようであった。
勿論、私達は仙台に行かなかった。信州に長くいることになった。
これはもう惚けてしまった叔父のことを考えると、いい滞在だったと思う。
私の息子は叔父と言葉も通じないのに2人で釣り堀に行ったし、私も叔父と楽しい時間を過ごした。
叔父はその次の年に心臓発作で、一反心臓が止まったが、また動いて、驚く程今は元気にしているが、すっかり惚けて、自分の息子を私の死んだ父だと思っている。
私のことなんか覚えている訳がないと言い切る従兄弟だったが、叔父は私のことはその後も覚えてた。けれど、増々惚けているので、次回は無理かもしれない。

私の人生は相変わらず大変で、いや、より一層、大変だった。
母の癌を2006年に知って2007年に彼女を亡くし、仕事も独立したから、延々と人生にチャレンジで、彼女たちに連絡を取らないまま、時が経ってしまった。私の持っている彼女のメールアドレスは余り使わないアドレス帳に入ったままでアドレス自体がキャンセルされてしまい、プライベートのメインのアドレスを操作ミスで過去の記録を全て無くしてしまったことが3年前ほど前にあり、彼女の連絡先が全く見つからないのである。

あれから、8年。仙台に歴史に残る大津波が先週、3月11日に。

ご家族、お友達は大丈夫ですかというメールやメッセージを受ける度に、もう親はいません。兄弟もいませんとも言えず、親友たちを家族と思い、全員無事です。ありがとうと答えている。
私の家族と呼べる人たちは東京、石川、大阪、長野にいる。それらは今回は中心を逃れているので、被害はあまりない。しかも、今の時代、好きなだけスカイプでチャット出来るから、チャット中に余震があったとすぐに知れる状態だ。コンピューターは世界を小さくしてくれた。
関西大震災の時は母が生きていたし、現地だったし、私は妊娠7ヶ月だった。
電話は全く通じなく安否を確認するまで、私の方が生きた気がしなかった。テレビに映る景色が私の記憶にもあるから、余計に心配がつのった。皆の無事が分かるまでに、2、3日かかった。

その後、日本に10年帰れなかったから、地震の惨事を全く知らない。

私は仙台にいるはずのこの家族の安否が気になって仕方がない。
日が経つにつれて、増々気になる。
彼女は帰国の少し前におとうさんを亡くしている。だから、九州に戻ったとは思えない。
17歳 、15歳、7歳の子供がいる。
ここに名前を書けば、誰かが彼女たちの無事を教えてくれるだろうか?

”なぁに言っているのよ。大丈夫よ。頑張らなくちゃ!”と、彼女のいつもの明るいめげない声が聞こえるような気がする。

毎日、渡辺家の全員の無事を祈ることしか私には出来ない。
多くの困難にあっている方々をお祈り申し上げます。

2011年3月3日木曜日

夢が叶った!

私がまだマイケルミラーのデザインをしていた頃,
4、5年前に2つのブログたるもののリンクをキャシー(マイケルミラーの社長)が送ってきた。ブログを始めたいから研究しろという事らしい。
それが ”Print & Pattern" だった。
凄いブログだと最初から思った。デザインを紹介しているんだが、どれもこれもより優れたデザインばかりが掲載されている。ブログなんて知らなかった私にはショックだった。ブログはウェブサイトと違って、日記のように毎日, 簡単にポスト出来て、非常に流動的な画期的なコマーシャル媒体。フェイスブックもその1つだが、これらを作った世代に感心するばかりだった。

”Print & Pattern" は4年程前はサポートのお店も10件ぐらいだった。
その中にVolksfadenがあって、一目で気に入った。ドイツ発のオンラインショップ。
マイケルミラーの見出しのコラージュに使われている生地は私のもので、あのグループは私のマイケルミラーでの私の最後の方の作品で、私が作ったグループだから名前をいれて欲しいと長年頼んでいたが叶わず、ついに名前をいれてもらったグルーブのデザインだった。
そのデザインを使ってくれていたので、あれは私のデザインです, ”Thank you" とメールして、マイケルミラーを出て、ブランクからライセンスデザイナーで生地が出ますとセールスもした。
ラッキーにもこのグループには私の名前が入っていたし、彼女は私の名前を覚えてくれた!
しかし、ブランクの生地を扱っているディストリビューターが少なく、私の生地を仕入れられないと連絡してきてた。
あの頃は20くらいのカテゴリーで、私はマイケルミラーの横にHoodieの生地が並ぶと夢見ていたものの、彼女は私の生地が買えなかったようである。
私の名前は一向に出ず、どんどん新しいデザイナーの名前で埋まっていった。
去年11月、彼女のサイトから私のサイトに訪問者が?リンク!
なんと私のベッジィが彼女のブログに!!!!

彼女が私のデザインでコラージュをしてくれるのを私は随分長く待った!嬉しくて仕方がない。一日中、嬉しいとニタニタ!
息子がこんな嬉しそうなお母さんを見た事がないと言った程。
お正月に、Timeless Treasuresに移りますと書いた年賀状を送ったら、
Timeless Treasuresなら問題がないわ。好きなだけ買えるわ。
じゃこれでレギュラーのデザイナーで置けるわねと喜んでいただいた。
ベッジィはどうやらしばらく売り切れていて、また仕入れてくれたようです。

今はカテゴリーも50以上ある。この3年ほどはデザイナーブランドのラッシュで、しかも優れたデザインが沢山出たと私は思う。似たデザインも多い。だから今は非常にデザイナーとしては難しい時代だと思う。

私の夢は私のデザインが、”Print & Pattern" に出る事だった。
イギリス発のこのブログはアメリカでは当然のこと、トレンド紹介のブログとしては世界中でトップクラスだと思う。
Volksfadenに私の名前も出ていい気分の私は、万が一私のデザインが”Print & Pattern"に載っていないかと、Hoodieを検索したが、勿論、”見当たりません”と出た。
Fabric をクリック、やはり私のデザインはない。Textileをクリック。
なんと私のピーマンがクッションで韓国のブランドとして紹介されている。
このピーマンは私のデザインですと、”Print & Pattern"のBowie氏に私のウェブやブログやライセンスの会社のリンクやVolksfadenのリンクも送った。2.3日経っても何の返事もないんでジャンクメールで処理されたかと思って、”Print & Pattern"にいくと、、、
なななんと、、、、、

DESIGNER - hoodie

Bowie Styleはちゃんと私のリンクを全部見てそこから好きなデザインをピックアップして載せてくれました。
なんと一日で35カ国から200人近い人が私のウェブに来てくれました!!
感謝です!

Kitty Bunny Pony と言う韓国のブランドにリンクしたけど、ピーマンはありませんでした。
1月のポストだったから、売り切れたのかなぁ?
なんか奇跡を感じてしまう!
ここのうさぎのぬいぐるみモンスター、白黒のシリーズ好きです。

どうしてNYなのかとアメリカに行く時、誰かに聞かれた。
ヨーロッパに近いから。と答えた!そう私のターゲットはヨーロッパ!
それとやっぱ、New York, New York です。
These little town blues, are melting away
I’m gonna make a brand new start of it - in old
new york
And if I can make it there, I’m gonna make it
anywhere
It up to you - new york new york

夢が叶った!