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2012年4月1日日曜日

信州ゆかりの会

アメリカで25人の日本人と一緒にいたというのは,子羊の群れという日本人の宗教団体に顔を出していた頃以来。

今年に入って4人の日本人の方とお会いする機会があり2人が長野のご出身,お一人が信州大学。これは珍しい話しで、大阪にいたときだって信州人にあまりあったことがない。しかも,このタイミングで県人会みたいなものがあるとおっしゃるので、即座に参加する気になってしまった。

大阪で育った私が大阪人になれなかったのは私の名字のせい。私の名字は長野のある一部にしかない珍しい名前なので、どちらのご出身?と必ず聞かれるからである。
あだ名も小さい頃から名字を短縮したものだったから、結婚しても旧姓で通した。結果的には離婚したから,まぁそれで良かったのであるが。

この名字が変わったら(結婚したら),いいことが起こると思ったこともあったが,どうやら変えずに人生を終えそうである。変わらなければ,私と母と叔父とで建てた信州の墓に入るつもりである。

実質,私は本名を使ってアメリカでは暮らしていない。Hoodieになって、もう随分なる。Crescentはfacebookが名字なしで登録させてくれなかったから,大好きな三日月を姓名にしてしまった。

墓の話しに戻るが、墓をどこに建ててくれと言わずに死んだ父なので、私が決めて建てたといっても大げさでない。父の実家の親族一同の墓のところに自分も入るのは嫌だといったが、私は大阪になど,絶対に親の墓を建てたくなかった。
私は信州の景色が恋しい。これは母も父も同じだったと思う。私の信州人の誇りはあの景色なのだ。北アルプスを一望出来るところにある墓に入る私は,全く異存がない。
私は大阪弁を喋る信州人なのである。

方言ゲームというのをなさった。あの小さな国で,小さな県で,尚かつ方言が違うというのも驚いた。叔父が使う”おあめえ、まめっていかい?”と言う言葉をほとんどの人が知らなかった。こんなことがあるのだろうか?”ごだこくでねぇ”というのも地域的な言葉かなぁ?

私は叔父のところに3日程いると,80%まで信州弁ぽく喋りだす。信州弁を喋れるのは,父も母もいつまでたっても大阪弁を巧く喋れなかったからだ。だから私も変な大阪弁と笑われた時代がある。
この会の間中は信州弁になるということはなく、そこにいらした方が大阪弁を喋られていたような気がする。

信州ゆかりの会 in NYC.
25通りの信州とNYがある訳だ。
うなってしまう!

P.S.
4月1日から詩とスケッチ,まぁ,落書きのつもりですが、そんなブログを始めることにしました。
日本語版は”気儘菜詩編”
英語版は"hoodie's just notes" という名前で別に作りました。ニュアンスが英語でも私の気持ちが届けばいいなぁと訳してみます。
10代後半から25まで詩を書いていた頃があります。その頃のものを200程残っていました。ここに載せていくつもりです。最近は本当にポツ,ポツとノートに書いては失くしています。それももったいないので、場所を作ってやることにました。失わないようにと!では、よろしく。

2012年3月31日土曜日

いいことが起こる気配!

家の壁にヒビが入っていた。それを修理するにあたって、いろんな理由で修理をしないままであった。

家の修復に関しては、いろんな予定がこの10年の間にあった。
母をアメリカに呼んで家を増築する時にやろうというのが、家を買った当初の計画であった。
けれど、そんな話しにならない間に母は乳癌になってしまい他界してしまった。
その死後、同時に私は安定していた職を離れた。信じていた人間(会社の社長)の裏切りに耐えられなかった。同時期にアメリカ経済は不況に突入。
仕事は新しい方向性で始めることになり、多くの可能性があったため、やることは限りなくあるが,収入はかなり厳しい状態となった。

壁ははがれる、トイレは潰れる、バスタブは古すぎて汚れが落ちない。とても他人様を入れれる状態で無くなったバスルームをリフォームしたら,依頼した相手が悪かった。
3度のやり直しの床のタイルの作業。2度のバスタブの辺りからの水漏れのため、触れてはいけないという壁を2度も打ち砕いてやり直し。トイレの配管からの水漏れ。10日で終わる工事が2ヶ月もかかった上に、他の問題が2年も続いた。最後の問題は外の壁にヒビが入るのである。
バスルームの工事の途中で,風水で絶対触っていけない鬼門にあるバスルームの壁を打ち砕いたということがわかった。しかもその年の鬼門の方角とダブルだった。
鬼門をドリルなどを使って音などを立ててはいけないとされている壁を2度も砕いた風水の祟り!

そう思い続けた私はその結果、”病にかかる”という風水の言葉を信じ,左の胸が痛いので、乳癌と信じ込んでしまった。鬱病の始まりであった。6ヶ月後、医者が私をマンモグラフィ に送った。ラッキーにも癌は発見されなかった。しかし、私の父からの遺伝の糖尿病による影響で一部の骨が消耗し続けるという病気は進行し続けた。その影響で食べれない状況が1年以上続き、水分だけで1ヶ月過ごすという時があった。完全に鬱病になっていた。人生のどん底と精神科医がいった程だ。

この家を買って2年目から地下の水漏れで3年程苦しんだ。修理を頼んで,お金を取られた上にまだまだ水漏れは続いた。風呂場のトラブルよりひどかった。
3年目にしてようやく、友達が使った会社を紹介してもらいフレンチドレインという一所に水を貯めてパンプで吸い出すいう大掛かりな工事をし,去年パンプのバックアップをパンプを取り付けてからというもの,今は100%水漏れなし。悩みの種が一つなくなった。
ということは私の水難相も解決することもあるが、楽観的に考えられないのは、ヒビの入った家、大事な場所(台所、バスルーム,玄関)が全て鬼門にある家に住んでいることである。

家のヒビを修さなければ運気が上がらないという風水に従い,修理したいのは山々だが、こういつも間違った人間を選択すると、次は誰に仕事を頼んでいいか不安で頼めない。

今年に入ってエホバの証人が来た。長年,日本人,アメリカ人のエホバの証人の訪問はあったが、宗教に入り込む気のない私は、こういう方達を家に入れてお話を聞こうと思ったことはなかった。
ところが,この方の名前が私の結婚当時と同じ名だったというだけで,お話を伺う気になってしまった。ご出身は?とお伺いすると,長野と答えられた。私が両親の骨を納めた土地、私も含め,家族全員が産まれた土地である。
世界全滅などとお話を持ち込まれたので、私は世界が全滅して私だけが生き延びようなどという気はありません。私は今食べれないので,いつ死んでもいいと思う日々です。だから、いいお話だけしてお帰りくださいとお願いした。
家を修理したいが,もう誰に頼んでいいか解らないと簡単にこれまでの事情を話すと、彼女は誰かを紹介すると仰って帰られた。彼女の知っている方にはできない仕事だったので、彼女の知りあいの知りあいという方を紹介して下さった。

お会いして見積もっていただいて、あれほど躊躇した仕事を即座にお願いした。
20年近くここにいて,日本人の方に知り合うということもほとんどなく、ましてや、家の修理をお願いするなど,考えたこともなかった。
余りにいろんなことがありすぎて、アメリカ人にアメリカ社会に疲れているのか、日本語で喋っているとすごく安堵感がある。アメリカ人社会100%で生きてきた私も、この2,3年は日本語が恋しい。

彼が来られてから、風呂場の壁のヒビの原因が解った。窓のところに取り付けた大理石をちゃんとシールしていないためメジにヒビが入り,壁の内側に流れ込んでいたのである。外の壁のヒビを埋めてもそのコンクリートが乾かず、ヒビが消えなかった。
窓の周りのヒビをきっちりシールして、3日程、壁に扇風機をあてているとヒビはどんどん消えていったのである。

うちの町だけに来たハリーケーンで裏庭の大きな枝が仕事場の屋根に落ちて穴をあけて水漏れ。アメリカの家族の従兄弟というのが屋根の会社に勤めていたから ということで,紹介してもらおうと電話をしたら、義理の息子がそういった仕事を自営業で始めたから僕たちが修理したいというので,3年以上無職 の彼を助けるつもりでやってもらい、正式な仕事と同じ金額を払ってやった。それなのにいまだに水漏れ。ほぼ半年である。直せもしないのに、開き直って,私を気違い扱いして、罵る始末。我慢も限界!ついに私は裁判に持ち込んだ。しかし、証拠が不十分で今の状態では勝てないと思うと裁判の前に示談を助ける立場の人が私にアドバイスをした。私を気違い呼ばわりしている相手に証拠不十分で負けるのは,いささか腑に落ちないので今回の裁判は見送り、証拠を確保してもう一度,裁判に持ち込みことにした。
ライセンスを持った屋根屋が4社,見積もりにきた。
4社とも口を揃えて、彼の仕事が如何に間違っているか説明してくれた。すでに私は4つの見積書が揃った。
その上、1社が裁判に勝つように力添えしてくれると言う。そのための証拠を揃えてやると言う。
家のヒビが少しずつ消えて行く度に、いろんな状況は少しずつ好転していく気がしてきた。

家が派手な黄色だったのを,薄い芥子色にした。黄色系統で同じ明度なので、色が変わったことを気付かない程,自然な変身なのである。この微妙な違いでが大きな違いがあるような気がする。

外のヒビの影響で台所の内側に水が入り、壁がぼろぼろになってしまっている。
この台所が去年の鬼門方位。家の外を修理しなければ,家の中も修理出来なかった。
外側の修理を見積もってもらうと最低で100万、600万といったところもあった。
アメリカは分担作業で壁、ウォータープルーフ,屋根の下のサイディング、全て別会社にやってもらわなければならなかったりする。だから,高くなる。
バスルームも分業のため高くなるといい,タイル,配管,電気といって見積もりと10日ですべてを終えるというので、納得した値段だったが,なんと英語の喋れないメキシカンを連れてきて,ライセンスのないメキシカンにその分断作業も全てさせ、彼らにも金を払わなかったのである。私は大枚をはたいて苦しんだのである。同じことを繰り返したくなかった。だから、鬼門の台所の壁はぼろぼろのまま。巧く家具で隠して,かろうじてその退廃を見ないようにはからった。

今年の鬼門は南で赤の物を置いてはいけないというので、旧暦の正月前に赤だった家の玄関の戸を茶色に塗った。実際は南に赤はいい色なのだが、何が正しいか解らないが,取りあえず、良くないと言われることはしないようにしたかったので、赤を排除することにした。すると、茶色のドアと芥子色の壁はシックリ相性がいい。

屋根が元通りになり、ガレージのへこみがなくなり(これはまた別のイヤーな話)、台所の壁が奇麗になってオレンジに塗り替えて,家のヒビが完全になくなったら、本当にいいことが起こるような気がしてきた。
今まで,滞って動かなかったものがこれで動き出す気がしてきた。

”これでいいことがあるかなぁ”
とお仕事して下さっている方にいうと、
”いいことがありますよ”
と答えられる。

彼が大学時代を過ごされたのが,私が産まれて,死んだら入る墓のある町から電車で1時間の松本であったのも不思議な巡り合わせで、彼の助っ人で2日、一緒に来られた方のお名前が信州のお名前だったこと,そしてやはり松本出身だったこと。
死んだ親が私のことを可哀想だと思って送ってくれた人たちだったのか?

人生で一番幸せなことは,助けてくれる人が傍にいるということだと私は思う。

私はこの家を売る。今現在は生き延びるのにこれしか方法はないのである。
息子のために家を買って育てた町。後一年で義務教育は終わる。
この町にいる必要がなくなる。
これを機会に滞った物を全て捨てて、鬼門だらけの家を出て,行くところを探そうと思う。
鬼門だらけでも,私と私の息子が築いた2人の城である。寂しい気もする。
しかし息子も高校を卒業したら自分の人生を自分で生きて行ってもらわなくては困る。
自分で責任を持って人生を歩んでもらわないと困る。
彼が大学に行ったら、私はこの家で一人で生きて行く自信がない。

2人のそれぞれの新しい可能性のある人生に向かうという希望のためのオペレーション。
12年間、同じところに住んだというのは私にとっては長い方。
だから変化はちょっと怖いけれど、やるしかないか。

2012年1月4日水曜日

クリスタル。

2011年の締めくくりと2012年の年明けの1週間を私達はバーモントに住んでいるフランシスのところで過ごした。

31日の早朝、私はチャウダーと散歩に出かけた。
フランシスの家を出て右に行くと分岐路がある。
その辺りで、シャカシャカシャカ、シャカシャカシャカという音が聞こえた。
レンガの教会のような建物からその音は聞こえた。
その屋根は銅板で出来ていた。
冷たい空気の粒子が冷たい銅板で薄い氷板を作り,それが即座にが滑り落ち、地面に落ちて割れ、クリスタルの音とかけらを作った。
薄い氷板は滑り落ちると,即座にまた氷板を作るらしく、絶え間なくクリスタルの音は続いた。
道を挟んだところに小川が静かに流れ、その音が滑らかにクリスタルの音に調和した。

美しすぎてしばらく動けなかった。

その夜、
食事を終えた後、フランシスは胃の調子が悪いのでカウントダウンまで横になって休みたいと言った。
私は彼女のところでキルトを作る目的で来ているのに,ナカナカその時間を作れずにいたので、私は彼女のアトリエに行って作業をすることにした。
一人は淋しいのでチャウダーを連れて出かけた。

彼女は町の中心にある小さな家を彼女のアトリエにしている。
一階を応接間と事務所とペイントルームにし,二階をソーイングルームにしている。
チャウダーはしばらく二階で私と過ごしていたが,一階のソファの方が心地よいと知って,下で昼寝した。

私は二階で一人の空間に感謝して、クラシック音楽を流した。
ピアノの演奏は静かなグラフトンの町の空気にぴったりだった。

年明けを祝福する花火の音が10時から11時の間に何度も聞こえたが、音が聞こえる度に下に降りてドアを開けたが、時すでに遅く、花火を見ることは出来なかった。

16歳になっている息子とフランシスのところに来たが、彼はここから50分程のスキー場で友達が働いていて、そのコンドに泊めてもらえると言って、30日からスキーに出かけてしまった。
彼はいろんな意味で親離れをした2011年だった。
その年の締めくくりにふさわしく、彼は私と一緒に年を越さなかった。

いろんな意味で私も息子のいない自分の人生をミシンを踏みながら、その音に励まされながら考えた。

”そろそろ年が明けるわよ。家に戻ってくる?”
と11時半頃、フランシスから電話があった。

”気分はどう?”
“随分マシになったわ。”

このアトリエから彼女の家に行く途中にホテルの前を通る。
フランシスの胃の調子が悪くなかったら,私達はこのホテルのレストランでバンドの演奏を聴く予定だった。
そのバンドの音楽が聞こえた。ナカナカいいバンドだと、その演奏にしばらく聴き入った。
全ての部屋は明るくホテルは満室のようで、各部屋が新しい年を待っていた。

大晦日の朝のクリスタルと夜の外灯のミストは絵となって、私の記憶に留まる。
Frances Holliday Alford's Quilt - Tree skirt
Street Scene of Grafton, VT
この景色は私が彼女のアトリエから家に帰る道のりの景色で、
フランシスのクリスマスツリーのスカートのキルトでもあります。
左手の建物がホテル,赤い建物は郵便局です。