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2012年4月1日日曜日

信州ゆかりの会

アメリカで25人の日本人と一緒にいたというのは,子羊の群れという日本人の宗教団体に顔を出していた頃以来。

今年に入って4人の日本人の方とお会いする機会があり2人が長野のご出身,お一人が信州大学。これは珍しい話しで、大阪にいたときだって信州人にあまりあったことがない。しかも,このタイミングで県人会みたいなものがあるとおっしゃるので、即座に参加する気になってしまった。

大阪で育った私が大阪人になれなかったのは私の名字のせい。私の名字は長野のある一部にしかない珍しい名前なので、どちらのご出身?と必ず聞かれるからである。
あだ名も小さい頃から名字を短縮したものだったから、結婚しても旧姓で通した。結果的には離婚したから,まぁそれで良かったのであるが。

この名字が変わったら(結婚したら),いいことが起こると思ったこともあったが,どうやら変えずに人生を終えそうである。変わらなければ,私と母と叔父とで建てた信州の墓に入るつもりである。

実質,私は本名を使ってアメリカでは暮らしていない。Hoodieになって、もう随分なる。Crescentはfacebookが名字なしで登録させてくれなかったから,大好きな三日月を姓名にしてしまった。

墓の話しに戻るが、墓をどこに建ててくれと言わずに死んだ父なので、私が決めて建てたといっても大げさでない。父の実家の親族一同の墓のところに自分も入るのは嫌だといったが、私は大阪になど,絶対に親の墓を建てたくなかった。
私は信州の景色が恋しい。これは母も父も同じだったと思う。私の信州人の誇りはあの景色なのだ。北アルプスを一望出来るところにある墓に入る私は,全く異存がない。
私は大阪弁を喋る信州人なのである。

方言ゲームというのをなさった。あの小さな国で,小さな県で,尚かつ方言が違うというのも驚いた。叔父が使う”おあめえ、まめっていかい?”と言う言葉をほとんどの人が知らなかった。こんなことがあるのだろうか?”ごだこくでねぇ”というのも地域的な言葉かなぁ?

私は叔父のところに3日程いると,80%まで信州弁ぽく喋りだす。信州弁を喋れるのは,父も母もいつまでたっても大阪弁を巧く喋れなかったからだ。だから私も変な大阪弁と笑われた時代がある。
この会の間中は信州弁になるということはなく、そこにいらした方が大阪弁を喋られていたような気がする。

信州ゆかりの会 in NYC.
25通りの信州とNYがある訳だ。
うなってしまう!

P.S.
4月1日から詩とスケッチ,まぁ,落書きのつもりですが、そんなブログを始めることにしました。
日本語版は”気儘菜詩編”
英語版は"hoodie's just notes" という名前で別に作りました。ニュアンスが英語でも私の気持ちが届けばいいなぁと訳してみます。
10代後半から25まで詩を書いていた頃があります。その頃のものを200程残っていました。ここに載せていくつもりです。最近は本当にポツ,ポツとノートに書いては失くしています。それももったいないので、場所を作ってやることにました。失わないようにと!では、よろしく。

2012年3月31日土曜日

いいことが起こる気配!

家の壁にヒビが入っていた。それを修理するにあたって、いろんな理由で修理をしないままであった。

家の修復に関しては、いろんな予定がこの10年の間にあった。
母をアメリカに呼んで家を増築する時にやろうというのが、家を買った当初の計画であった。
けれど、そんな話しにならない間に母は乳癌になってしまい他界してしまった。
その死後、同時に私は安定していた職を離れた。信じていた人間(会社の社長)の裏切りに耐えられなかった。同時期にアメリカ経済は不況に突入。
仕事は新しい方向性で始めることになり、多くの可能性があったため、やることは限りなくあるが,収入はかなり厳しい状態となった。

壁ははがれる、トイレは潰れる、バスタブは古すぎて汚れが落ちない。とても他人様を入れれる状態で無くなったバスルームをリフォームしたら,依頼した相手が悪かった。
3度のやり直しの床のタイルの作業。2度のバスタブの辺りからの水漏れのため、触れてはいけないという壁を2度も打ち砕いてやり直し。トイレの配管からの水漏れ。10日で終わる工事が2ヶ月もかかった上に、他の問題が2年も続いた。最後の問題は外の壁にヒビが入るのである。
バスルームの工事の途中で,風水で絶対触っていけない鬼門にあるバスルームの壁を打ち砕いたということがわかった。しかもその年の鬼門の方角とダブルだった。
鬼門をドリルなどを使って音などを立ててはいけないとされている壁を2度も砕いた風水の祟り!

そう思い続けた私はその結果、”病にかかる”という風水の言葉を信じ,左の胸が痛いので、乳癌と信じ込んでしまった。鬱病の始まりであった。6ヶ月後、医者が私をマンモグラフィ に送った。ラッキーにも癌は発見されなかった。しかし、私の父からの遺伝の糖尿病による影響で一部の骨が消耗し続けるという病気は進行し続けた。その影響で食べれない状況が1年以上続き、水分だけで1ヶ月過ごすという時があった。完全に鬱病になっていた。人生のどん底と精神科医がいった程だ。

この家を買って2年目から地下の水漏れで3年程苦しんだ。修理を頼んで,お金を取られた上にまだまだ水漏れは続いた。風呂場のトラブルよりひどかった。
3年目にしてようやく、友達が使った会社を紹介してもらいフレンチドレインという一所に水を貯めてパンプで吸い出すいう大掛かりな工事をし,去年パンプのバックアップをパンプを取り付けてからというもの,今は100%水漏れなし。悩みの種が一つなくなった。
ということは私の水難相も解決することもあるが、楽観的に考えられないのは、ヒビの入った家、大事な場所(台所、バスルーム,玄関)が全て鬼門にある家に住んでいることである。

家のヒビを修さなければ運気が上がらないという風水に従い,修理したいのは山々だが、こういつも間違った人間を選択すると、次は誰に仕事を頼んでいいか不安で頼めない。

今年に入ってエホバの証人が来た。長年,日本人,アメリカ人のエホバの証人の訪問はあったが、宗教に入り込む気のない私は、こういう方達を家に入れてお話を聞こうと思ったことはなかった。
ところが,この方の名前が私の結婚当時と同じ名だったというだけで,お話を伺う気になってしまった。ご出身は?とお伺いすると,長野と答えられた。私が両親の骨を納めた土地、私も含め,家族全員が産まれた土地である。
世界全滅などとお話を持ち込まれたので、私は世界が全滅して私だけが生き延びようなどという気はありません。私は今食べれないので,いつ死んでもいいと思う日々です。だから、いいお話だけしてお帰りくださいとお願いした。
家を修理したいが,もう誰に頼んでいいか解らないと簡単にこれまでの事情を話すと、彼女は誰かを紹介すると仰って帰られた。彼女の知っている方にはできない仕事だったので、彼女の知りあいの知りあいという方を紹介して下さった。

お会いして見積もっていただいて、あれほど躊躇した仕事を即座にお願いした。
20年近くここにいて,日本人の方に知り合うということもほとんどなく、ましてや、家の修理をお願いするなど,考えたこともなかった。
余りにいろんなことがありすぎて、アメリカ人にアメリカ社会に疲れているのか、日本語で喋っているとすごく安堵感がある。アメリカ人社会100%で生きてきた私も、この2,3年は日本語が恋しい。

彼が来られてから、風呂場の壁のヒビの原因が解った。窓のところに取り付けた大理石をちゃんとシールしていないためメジにヒビが入り,壁の内側に流れ込んでいたのである。外の壁のヒビを埋めてもそのコンクリートが乾かず、ヒビが消えなかった。
窓の周りのヒビをきっちりシールして、3日程、壁に扇風機をあてているとヒビはどんどん消えていったのである。

うちの町だけに来たハリーケーンで裏庭の大きな枝が仕事場の屋根に落ちて穴をあけて水漏れ。アメリカの家族の従兄弟というのが屋根の会社に勤めていたから ということで,紹介してもらおうと電話をしたら、義理の息子がそういった仕事を自営業で始めたから僕たちが修理したいというので,3年以上無職 の彼を助けるつもりでやってもらい、正式な仕事と同じ金額を払ってやった。それなのにいまだに水漏れ。ほぼ半年である。直せもしないのに、開き直って,私を気違い扱いして、罵る始末。我慢も限界!ついに私は裁判に持ち込んだ。しかし、証拠が不十分で今の状態では勝てないと思うと裁判の前に示談を助ける立場の人が私にアドバイスをした。私を気違い呼ばわりしている相手に証拠不十分で負けるのは,いささか腑に落ちないので今回の裁判は見送り、証拠を確保してもう一度,裁判に持ち込みことにした。
ライセンスを持った屋根屋が4社,見積もりにきた。
4社とも口を揃えて、彼の仕事が如何に間違っているか説明してくれた。すでに私は4つの見積書が揃った。
その上、1社が裁判に勝つように力添えしてくれると言う。そのための証拠を揃えてやると言う。
家のヒビが少しずつ消えて行く度に、いろんな状況は少しずつ好転していく気がしてきた。

家が派手な黄色だったのを,薄い芥子色にした。黄色系統で同じ明度なので、色が変わったことを気付かない程,自然な変身なのである。この微妙な違いでが大きな違いがあるような気がする。

外のヒビの影響で台所の内側に水が入り、壁がぼろぼろになってしまっている。
この台所が去年の鬼門方位。家の外を修理しなければ,家の中も修理出来なかった。
外側の修理を見積もってもらうと最低で100万、600万といったところもあった。
アメリカは分担作業で壁、ウォータープルーフ,屋根の下のサイディング、全て別会社にやってもらわなければならなかったりする。だから,高くなる。
バスルームも分業のため高くなるといい,タイル,配管,電気といって見積もりと10日ですべてを終えるというので、納得した値段だったが,なんと英語の喋れないメキシカンを連れてきて,ライセンスのないメキシカンにその分断作業も全てさせ、彼らにも金を払わなかったのである。私は大枚をはたいて苦しんだのである。同じことを繰り返したくなかった。だから、鬼門の台所の壁はぼろぼろのまま。巧く家具で隠して,かろうじてその退廃を見ないようにはからった。

今年の鬼門は南で赤の物を置いてはいけないというので、旧暦の正月前に赤だった家の玄関の戸を茶色に塗った。実際は南に赤はいい色なのだが、何が正しいか解らないが,取りあえず、良くないと言われることはしないようにしたかったので、赤を排除することにした。すると、茶色のドアと芥子色の壁はシックリ相性がいい。

屋根が元通りになり、ガレージのへこみがなくなり(これはまた別のイヤーな話)、台所の壁が奇麗になってオレンジに塗り替えて,家のヒビが完全になくなったら、本当にいいことが起こるような気がしてきた。
今まで,滞って動かなかったものがこれで動き出す気がしてきた。

”これでいいことがあるかなぁ”
とお仕事して下さっている方にいうと、
”いいことがありますよ”
と答えられる。

彼が大学時代を過ごされたのが,私が産まれて,死んだら入る墓のある町から電車で1時間の松本であったのも不思議な巡り合わせで、彼の助っ人で2日、一緒に来られた方のお名前が信州のお名前だったこと,そしてやはり松本出身だったこと。
死んだ親が私のことを可哀想だと思って送ってくれた人たちだったのか?

人生で一番幸せなことは,助けてくれる人が傍にいるということだと私は思う。

私はこの家を売る。今現在は生き延びるのにこれしか方法はないのである。
息子のために家を買って育てた町。後一年で義務教育は終わる。
この町にいる必要がなくなる。
これを機会に滞った物を全て捨てて、鬼門だらけの家を出て,行くところを探そうと思う。
鬼門だらけでも,私と私の息子が築いた2人の城である。寂しい気もする。
しかし息子も高校を卒業したら自分の人生を自分で生きて行ってもらわなくては困る。
自分で責任を持って人生を歩んでもらわないと困る。
彼が大学に行ったら、私はこの家で一人で生きて行く自信がない。

2人のそれぞれの新しい可能性のある人生に向かうという希望のためのオペレーション。
12年間、同じところに住んだというのは私にとっては長い方。
だから変化はちょっと怖いけれど、やるしかないか。

2012年1月4日水曜日

クリスタル。

2011年の締めくくりと2012年の年明けの1週間を私達はバーモントに住んでいるフランシスのところで過ごした。

31日の早朝、私はチャウダーと散歩に出かけた。
フランシスの家を出て右に行くと分岐路がある。
その辺りで、シャカシャカシャカ、シャカシャカシャカという音が聞こえた。
レンガの教会のような建物からその音は聞こえた。
その屋根は銅板で出来ていた。
冷たい空気の粒子が冷たい銅板で薄い氷板を作り,それが即座にが滑り落ち、地面に落ちて割れ、クリスタルの音とかけらを作った。
薄い氷板は滑り落ちると,即座にまた氷板を作るらしく、絶え間なくクリスタルの音は続いた。
道を挟んだところに小川が静かに流れ、その音が滑らかにクリスタルの音に調和した。

美しすぎてしばらく動けなかった。

その夜、
食事を終えた後、フランシスは胃の調子が悪いのでカウントダウンまで横になって休みたいと言った。
私は彼女のところでキルトを作る目的で来ているのに,ナカナカその時間を作れずにいたので、私は彼女のアトリエに行って作業をすることにした。
一人は淋しいのでチャウダーを連れて出かけた。

彼女は町の中心にある小さな家を彼女のアトリエにしている。
一階を応接間と事務所とペイントルームにし,二階をソーイングルームにしている。
チャウダーはしばらく二階で私と過ごしていたが,一階のソファの方が心地よいと知って,下で昼寝した。

私は二階で一人の空間に感謝して、クラシック音楽を流した。
ピアノの演奏は静かなグラフトンの町の空気にぴったりだった。

年明けを祝福する花火の音が10時から11時の間に何度も聞こえたが、音が聞こえる度に下に降りてドアを開けたが、時すでに遅く、花火を見ることは出来なかった。

16歳になっている息子とフランシスのところに来たが、彼はここから50分程のスキー場で友達が働いていて、そのコンドに泊めてもらえると言って、30日からスキーに出かけてしまった。
彼はいろんな意味で親離れをした2011年だった。
その年の締めくくりにふさわしく、彼は私と一緒に年を越さなかった。

いろんな意味で私も息子のいない自分の人生をミシンを踏みながら、その音に励まされながら考えた。

”そろそろ年が明けるわよ。家に戻ってくる?”
と11時半頃、フランシスから電話があった。

”気分はどう?”
“随分マシになったわ。”

このアトリエから彼女の家に行く途中にホテルの前を通る。
フランシスの胃の調子が悪くなかったら,私達はこのホテルのレストランでバンドの演奏を聴く予定だった。
そのバンドの音楽が聞こえた。ナカナカいいバンドだと、その演奏にしばらく聴き入った。
全ての部屋は明るくホテルは満室のようで、各部屋が新しい年を待っていた。

大晦日の朝のクリスタルと夜の外灯のミストは絵となって、私の記憶に留まる。
Frances Holliday Alford's Quilt - Tree skirt
Street Scene of Grafton, VT
この景色は私が彼女のアトリエから家に帰る道のりの景色で、
フランシスのクリスマスツリーのスカートのキルトでもあります。
左手の建物がホテル,赤い建物は郵便局です。

2011年8月10日水曜日

有名人と才能。

キルト業界のイベントがあった。
3,4年前に友達になったミッシェルが誘ってくれるところには顔を出すことにしている。それがかれこれ3、4年も経つといろんなことが起こる。

ミッシェルはシンプリシティのイベントのディレクター。けれど、彼女はアーティストでもある。けれどシンプリシティ、1920年創業の大手で働く限り、その恩恵は無視出来ない。彼女と友達になって、キルト業界で生地を売って14年にもなるというのに、キルトのことを理解していなかった私がこの3、4年でようやく、片足を突っ込んだ気になってきた。

この3、4年で知り合った人たちは私がマイケルミラーが出来る前から、キルトショーに一員として行っていることや、14年もキャシーミラーのデザインをしていたなんて誰も知らない。
あの時の仕事がまだマイケルミラーで売っているなんて誰も知らない。
デザインというのはそれを創っていた時の思い出があるから、作品を見ると、その時の自分の記憶も戻ってくる。特に私が一生懸命創った作品だけに思い入れがある。
そのデザインを置いて来た子供のように遠くから、眺めている親であることを誰も知らない。

自分で作った小さな人間関係の世界で、ライセンスとして生地を業界に出して、3年。
無名の私が、Hoodieとなったのは、たった3年。そして4年目の今年。

私がキルトを作ったこともなかったのに、2作目のキルトが、シンプリシティのキルトのコンペで一位を取ったりしたから話しが余計、こんがらがってきた。キルトも作るデザイナー!
その上、シンプリシティでパターンも出しているから、シンプリシティの契約アーティストとなる。
キルト業界に身体の半分くらいまで浸かった感じで存在しているHoodieということになってきた。
どうやら、私は彼女を通して普通では友達になれない人達と友達のようになっているようなのである。
才能と名声を持った人たちの中に友達としてと時間をいただいていると気付いたのはこの3日前のことである。

イベントにただ来た人ならば、そこそこでおいとまする。私は主催者のグループの友達だから彼らが片付けが終わるまで一緒に居る。それだけでどうやら、私は立場はただイベントに参加した人とは違う立場となる。
しかし、後で知り合った人たちを検索すると、みな成功者なのだ。業界のピンなのである。

3年前に業界の有名人、マークレピンスキーと知り合いになれればいいなと思った。
今はその有名人が、”フーディ、ダーディに向かってスマイル”と私の写真を撮りにきた。
自分の写真を滅多に載せない私のファイスブックに彼はその私の写真をポストした。
こんなこともあるんだ。

業界の有名な会社の社長たちが帰る時に、”グッバイ、フーディ”と私の名前を言った。

私の知り合った有名人たちは確実に余裕のある生活を送っている人ばかりである。
夫があって子供が居て、才能があって、裕福である。しかも美貌まで持っている人も居る。
彼らの作品を見るとその才能にくらくらしてしまう程だ。

キルト業界のアーティストは女性上位で、しかも、夫のサポートを影で頂いている人たちが多い。成功は幸福のバックグラウンドに存在しているように思える。
いろんな意味で、キルト業界は贅沢な業界だと私は思う。余裕がなければ出来ないところが、贅沢だと思う。

私は完全にマイケルミラーのフーディではなくなったことを実感する。
14年もキャシーと居て、何一つ見れなかった世界を、自分の目で見ている。
あの時のデザインスタイルを使わず、新たな自分のすタイルをブランクキルティングで創って3年。今年からはタイムレストレジャー。今からは新しい自分を作っていきたい。
沢山、新しい子供を作っていこうと思う。
キルト業界に身体の半分以上まで浸かっているなら、もっとミシンも踏もう!と決めたのであった!

そこに居るというだけで、自分が存在することもあるもんだ。

2011年7月25日月曜日

アゲン。偶然という必然。

16日間の日本。

今回は色々と確認したいことがあって帰ったのだが、その確認も感慨深いものとなった。
大阪を8日間にして、信州を4日間、東京は短く2日間とした。

奇遇、その1
大阪に着いてすぐの二日間は親友たちと過ごした。父の命日を久しぶりで日本で過ごした。
親友の一人が帰国一日目に悲報を持ってきた。
彼女の友達が私の30年前のボスのところで働いていて、そのボスが亡くなったと私の親友にメールしてきたらしい。彼女の友達は私の存在すら知らず、なぜその悲報を私の友達に私の帰国に日に送ったのか?この偶然に私の友達も驚いていた。
彼はボスというよりは私の友達だった。私の大変仲が良かった先輩の友達で、縁があって彼の事務所で2年程働いた。その後、私は独立して現在に至る訳である。
私がアメリカに移住する時も偶然、本町で出会ってお茶を飲んだ。その時、彼は私達の共通の友達、私の先輩が亡くなっていたということを教えてくれた。彼女のご主人は彼にも彼女の悲報を連絡しなかったそうだ。
私は私の父が亡くなる数週間前に入院していた彼女を見舞ったきり、連絡が途切れていた。彼女は退院したら離婚してやり直すと言っていた。私に37,8歳頃、子供を産めと勧めた。
そして、偶然にも私はその歳に息子を産んだ。あれは彼女の遺言だったことになる。
今回はそれを伝えてくれた友達が死んでしまった。心筋梗塞。突然の死であったようである。
私のショックはかなりのものだった。
彼はどうやら私には旅立ったことを知っておいて欲しかったのだろう。
今、ライセンス契約しているタイムレストレジャーの社長と彼は知り合いで、私はこの会社の仕事を彼の事務所に居た時にしていたから、かれこれ30年以上の付き合いとなる。
奇遇、その2
銀行に行く予定だった日、親友が泊まっていて私達は夜更かしし、朝のスタートが遅かった。その上、息子がコンタクトの洗浄剤がないから目が痛むと苦情。自転車でスーパーに走った。暗証番号の鍵が開かない。覚えていないのである。どうか盗まれませんようにと祈って、薬局に走った。5分で戻ってきて自転車に乗るとタイアがパンク状態。
自転車を押しながら、考えた。
どう考えても3時には間に合わない。今日の銀行は諦めよう。明日の朝に行こうと決断して焦って、イライラするのを辞めた。
自転車屋にもって行くとはパンクでなく虫を盗まれたとわかった。
こういうことは多々あるらしい。しかし、駐車場にちゃんと止めた自転車なのに、一体誰が5分の間に虫を盗むのだろう?
修理は虫代の300円。
次の朝に銀行に行くと昨日はアメリカが独立記念日で休みだったので、受付出来ませんでいた。ラッキーですねと言われた。ふむ!
いつもは独立記念日に花火を見るが、今年は日本だったので、すっかり忘れていた。
奇遇、その3
今回のニュースポットは梅田、伊勢丹デパートと聞いていたので、梅田で友達と会うついでに市場調査。すると、エスカレーターで長年知り合いの事務所のオーナーとすれ違う。
彼らに私が親友から貰った悲報のことを話すと、少しだけ彼らの知っている彼のことを教えてくれた。業界は20年前の不況により、今や限られた者たちだけ生き残っている。そして、私は限られて生き残った人たちと知り合いなのである。亡くなった友達も生き残ったと言われるデザイン事務所であった。3年前に私のデザインの前に飾られたデザインが日本のデザイン事務所のものというので、名前は?って聞くと、彼の事務所のデザインだった。不思議な気がしたものだ。今回は本町に来られますか?と聞かれるので、実は明日、行こうと思っているんです。
どうぞ、お寄りくださいと誘われて、彼らの事務所に2件の仕事関係を訪ねた後、お邪魔することになった。かれこれ、20年ぶりのことである。そこでまた長いこと会わなかったヴォーグ出版社の人と8年ぶりの鉢合わせ。彼らは東京から来ているので確かに奇遇。
奇遇、その4
梅田の丸善のジュンク堂に行く時に通り道のひとつで、NU茶屋町というファッションビルを探検。そこの本屋で見つけた地ビール。箕面ビール。本屋でビール?
箕面で育った私が、地ビール好きの私がこの偶然に驚かないわけはない。
18年前に日本を出た私は14年も存在しているという箕面ビールを全く知らなかった。
日本の地ビールブームがあったことも、それが定着したことも知らなかった。
早速、次の日に牧落の工場に出かけて6種類のビールを買った。日本の地ビールは高かったが、帰る前に全部、味見しないと後悔が残る!奇遇、その5
30年間前に友達に紹介された出版社の編集長とイラストの仕事をして15年、アメリカに移ってからも付き合いは続いている。日本に戻ると必ず会う友達の一人。4年前に見つけた釣船茶屋、ざうおに行ったのは彼となので、それ以来、彼と食事をするとなると息子はそこに行くと思っている。釣った魚をすぐに料理して、食べるお店。
予約していないので、釣り堀の横の部屋はないと言われたが、8人用座敷を使っていいと一番いい部屋を貰った。余りに広いので、最初は恐縮したが、ナカナカいい部屋だった。
”もう一度、一緒に仕事!”が口癖で会う度に、企画を立てる私達である。息子が魚を釣っている間に商談というところだ。私にはいい企画があったので、意気揚々と企画を発言!さて、どうなるかぁ。
私は彼に”本屋で見つけたビール”の話やこの本屋のテイストが好きという意見を述べた。すると、彼は、”その本屋、知っている。僕の友達がそこで出版のサイン会をした。”と言った。
そのお友達は黒田征太郎のお友達でもあるそうだ。
彼がNOVAの編集長をしていたとき、私はコーディネーターでニューヨーク特集に参加している。あの時にインタビューした人たちの70%は私の友達である。友達の懇意の黒田征太郎さんはその時、ニューヨークにいらしたので彼のイラストを使っている。
私達の名前と黒田サンの名前は雑誌の裏に記名されている。
それ以来、私の行くところの食べ物屋に黒田サンのサインがあることが3回以上!
でも、残念なことに私は本人を全く知らない。笑。
友達は時間があれば本店に行ってくればいいと勧めてくれた。
社長の名前や道の名前までしっかり教えてくれた。
奇遇、その6
勝尾寺は帰国した時は必ず親友と行く私達のお寺。己に勝つという教えのお寺!
そもそもは母の死後、飽和状態だった母の家の片付けを親友として、ゴミの収集に凄くお金がかかるので、自分たちでゴミの収集場所まで持って行った。値段は5分の1程、安いのである。それが勝尾寺の近くにあり、その度に参拝に行ったことか始まる。聞いての通り、私の2人の親友は天使である!
今回は行かないのかい?と親友に言われて、ゴミは出さないが参拝だけに出かけることにした。きっと神様もその方が有り難いだろう!
その後、お茶にすることにした。
はっきり道を覚えていない親友がここらで曲がろうと意図もなく曲がった。
すると、私達のお気に入りの珈琲蔵人 箕面店に出た。
この珈琲屋は母が危篤で息子をアメリカに残してきた時に見つけた店で、そこに置いているひとつのコーヒーの名前が息子の名前だった。“全人” うちの子はゼントと読む。
あの時は感慨深く息子の名前のコーヒーを飲んだ。忘れられない。
今回はここで食べたコーヒーゼリーは格別、美味しゅうございました。
奇遇、その7
大阪に転勤になっている仕事関係、息子の小さいときから知っているということもあって、ご一緒にお昼をさせていただいた。そのついでに箕面ビールを置いていた本屋の本店に寄ってみることにした。スタンダードブックストア、名前も面白い。
お店を探検して、一休みでアイスコーヒーを飲むことにしたら、トークショーがカフェで始まった。計画してもなかなかタイミングよくイベントに出会わないものである。
居心地よく、トークショーの最後まで居てしまった。私の隣りに座っている人がこのお店のオーナーだと分かったのは、彼がトークショーの最後に名前を言って何冊かの本を紹介したからである。私の出版関係の友達がオーナーの名前を言ってくれてなかったら、気がつかなかったかもしれない。
奇遇をチャンスに声をかけさせてもらった。(この話は英語でHoodie's Landに。)
こんなことも、前もって計画していてもナカナカあるもんじゃないと思う。
奇遇、その8
信州の従兄弟に電話すると、おまえたちが来ると言うから13日に休みを取ったと言う。その日に出るつもりだったので、いつもの私だったら、着くのは昼過ぎか夕方。それでは彼の休みを無駄にしてしまうのである。
列車の乗り継ぎをインターネットで検索。6時の新幹線に乗ると10時に着くというのを見つけた。乗り継ぎが全て5分以内。これは滅多にない。
最後の日も一緒にいてくれる親友たちにこのことを言うと、その夜は泊まって新大阪まで送ってくれるという。朝早い方が道も混まないし、一日を無駄なく過ごせると言う。
感謝!その前の晩にクロネコで大きなスーツケースを空港留めで送り、近所のディスカウントショップで格安チケットを買うつもりだったが閉まっていた。済まぬが新大阪まで行ってくれと頼む私に、新大阪は遠いと友達は答えた。けれど、早朝に弱い私はどうしても切符を買っておきたかった。ついに友達は同意してくれ、新大阪まで行ってくれた。感謝!なんと土産屋は朝6時半にしか開かず、その晩もまさに閉めようとしていた。ぎりぎりで土産の饅頭を獲得。5分の乗り継ぎで土産を買えるはずがなかったから、新大阪まで来てくれた友達に再び
これで去年亡くなった叔母のところにも土産を持って行けるのであった。
寝たら起きれないと起きていようとした友達たちも3時前にはふらふらになっていたので、消灯にした。少なくとも2時間は寝たか?!
万が一、起きれなかったら指定席でないので、6時の新幹線を諦めればいいのである。しかし、皆、起きたのである。凄い!
グーグルマップは所要時間30分だったのに、道がすいていて、20分で着いた。無事、乗車。
親友たちと別れるこの日、私達4人は、私の家から虹を見たのである。
何年ぶりに見ただろう。1時間おきの乗り継ぎは列車で爆睡していて起こされる息子を不機嫌にさせた。
5分の乗り継ぎだから、走れ走れと息子に言う度に、増々、彼を不機嫌にさせた。
夏休み前につき、自由席はがらがら。二席確保して離れて座る私たちであった。
4時間で信州。これは快挙である。従兄弟たちも4時間はあり得ないとびっくり。
確かに私の小さい頃は丸一日かかって帰ったものだ。
早起きは3文の徳!奇遇、その9
もう惚けている90の叔父。今年は私が誰だか分からないかもしれないと、一応、気持ちの準備はして”私は誰?”と訊く。今年もトライアルはパス。私の名前をはっきりと言った。そして私の従兄弟は相変わらず、私の父の名前。大阪に3歳で移り、数える程しか帰ってこなかった信州、一体私はどうやって強烈な印象を叔父に植え付けたのだろう?叔父は優しい顔で私を愛す!私が息子を連れて初めて叔父のところに言った頃は、叔父も頭がしっかりしていた。英語しか喋れない私の息子と2人で釣りに行って帰ってきたら、”お前の息子は日本語も喋れず、唖ずら”と言った。だから私は叔父を”アンタは英語も喋れず聾ずら”と言い返した。昔は酒を一緒に飲んだ、煙草も一緒に吸った。こんな仲だったから、忘れないのかなぁ?
出来るだけ、長生きして下さい!I love you!

今回は会ったこともない母の義理の弟の息子、私の従兄弟になるのか?に会うことになっていた。彼が私を連れて行った寿司屋は、私の母の納骨式でお葬式に来れなかった親族を呼んで食事会をした寿司屋だった。彼は12歳、一回り下。初めてのお子さんの予定日がなんと、私の誕生日であった。偶然の一致も3つあると不思議な気がした。
奇遇、その10
東京では会えないと思った仕事先、2件とも会えた。
京成ラーナーで空港のため、ホテルは上野辺り。だから、上野で落ち合って晩ご飯を一緒に食べることになっていた。彼女は3人のお子さんとその子供たちのベビーシッターをしていたという方とそのお母さんとも会うことにしていて、私達の団体は上野公園の探検となった。
彼女は昔この付近の大学に通っていたので、大変くわしい。
私達は初めてなので物珍しい。西郷隆盛の銅像も初めて見た。不忍池に行くと屋台が出ていた。看板に”灯籠流し、7月17日7時”とあった。7が3つ。今日である。
計画してもなかなか来れないお祭りである。
私達はここで屋台の食べ物で夕食を終え、灯籠流しを見ることになった。子供たちも大喜び。
私と息子は怖いながらもおみくじを引いた。私は大吉に大黒天が付いていた。
虚無僧達、僧侶達、そして住職様のお経が始まった。私は思わず、カバンに入れていた数珠を出した。息子の分まであった。地震、津波の被害者の方々の弔いも兼ねていた。日本滞在中に、あの日、仙台に住んでいた友達と8年ぶりに電話で話をすることが出来た。地震の時の模様も聞いた。すぐ近くの人たちが沢山亡くなってしまったということだった。バラバラにいた家族全員が無事だったのは奇跡のようだと言っていた。人生に後悔がないようにと彼女は3人の子供を連れて彼女の里、福岡に戻った。新しい人生が始まっているようだった。しかし、ご主人はご自分が産まれた仙台を捨てられず、残られた。
池に流されて行く灯籠をこの目で見たもの初めてだった。あの灯火にはいろんな思いが入って居るのだろう。神の御加護を。東京では中学からの親友にも会えた。彼女はギラン・バレー症で身体の自由がきかなくなり、辛い思いをして行きている。私の辛いとは桁が違うのかもしれない。彼女のために祈れるだけ、祈りたい。早くにご主人を亡くして一人で2人の子を育てられた84になる彼女のお母さんのことも祈りたい。神の御加護を。
ラッキー、その1
ついに帰国に日。2時半に空港だから午前中を有意義に過ごしたいと、荷物を上野のコインロッカーに入れて浅草に行くことにした。暑くなければ上野から歩いて合羽橋を通りたかったが、やたら東京は暑かった。銀座線で浅草。
8年程前に訪れた時は雷門の提灯は修復中で私達の浅草の写真にない。だからもう一度、機会があったら行きたかった。18日は海の日で休みで、連休だったからか、人出は多かった。これは活気があってそれなりに良かった。最後の日は何を食べようかと考えていたがちらっと、ラーメンかなぁと思っていた。すると、木馬座の前のお食事処にラーメン半額と書かれていた。入らずにはいられなかった。とっても美味しかったです!
そこに私が忘れた化粧品を持って身体の悪い友達の娘が来てくれた。彼女の彼氏と。こんな風に会えるもの縁であると思う。彼女にも神の御加護を。
ここでも大吉を出して、急いで上野に戻る。18日、吉の日と書かれているからサマージャンボも3000円分、買ってしまった。京成ラーナーで切符を買うと後4分という。コインロッカーから荷物を出して間に合うか?走れ、走れ、ぎりぎり間に合った!ハイ、ファイブ!
ラッキー、その2
空港ではローソンで買った食べ物を持ち込めないと分かって、走って返品に。
ラッキーにも返品オッケー!けれど搭乗はぎりぎり。でも間に合った。

この旅で、走れ、走れを何回しただろう?
全ては神のなさるままの旅が終わった。
人生とは不思議なものである。偶然という必然は用意されている。
私達が引いたおみくじは大吉でも小吉でも吉でも末吉でも、言っていることはほぼ同じで、
“全ては丸く治まる”ということだった。開花だそうだ!
(Hoodie's Land の話を参照)
人生ぎりぎりまで諦めないで頑張れるだけ頑張りたい!

このぎりぎりという言葉。私の従兄弟の子供のその子供、3歳の子(ハク)が聞いているウルトラマンガイアの歌。この歌の一部を”ぎりぎりまで”というフレーズ、日本が喋れない息子が覚えて歌えた言葉なのだ。
私達はおそらく10年ぶりにこの歌を聴いたことになる。
大きくなったらウルトラマンゼロになりたいというハク。
なんていう関係になるのかなぁ?血筋のおばさんと変なアメリカ人のお兄さん?ゼントはハクとヒロム(従兄弟の娘の夫)とは大の仲良し。
男の子に恵まれなかった本家に男の子たちが仲間入り!
息子に日本で何を学んだ?と聞いたら, 僕には日本で帰るところがあると言った。
私の愛する信州のことらしい。
こんなことが起こるのだなぁとつくづく思う。
ここは私と従兄弟が小さい時に遊んだ観音様。世代交代である!
少し感傷的になる写真です。
きっと私の息子は自分で自分の日本を作っていくだろう。

頭の整理で書いた帰国の話。終わりのつもり。
明日からちゃんと仕事します!

2011年7月24日日曜日

かっこいい写真、発見。

4年前から息子は大阪に帰る度に行くところがある。
それは箕面マーケットパーク・ヴィソラ、カルフールのあたり、171号線沿いにあるDOT9というスケボ、スノボ、シューズ、T−シャツなどお店帰る度にこのお店に入り浸りになるので、お友達も出来た。
インターナショナルスクールが近くにあって、息子のようなハーフの子も沢山来るらしく、英語で遊んでくれる子もいるようだ。この4年間ですっかり仲良くなったのは、直人くん。この3年間程はフェィスブックでもコミュニケートしていたようだ。うちの子より2つくらい上なので、なんと今年はすでに運転免許を持っていて、車でうちの子を送り迎えしてくれた。
3年前、息子は毎日、折りたたみ式の自転車で30分くらいかかって、汗を一杯流して、このお店に通い、その裏にある公園でスケートしたり、ビデオを撮ったりして過ごした。
180cm近くに成長した息子は彼らとさほど変わらない雰囲気になっていて、もう子供ではないという世間の扱いも息子を上機嫌にさせた。
今年は随分、楽に遊べたことになる。
息子のしたいことと私のすることが違うから、こうして自分の時間を自分の友達と使ってくれると、ティーンエイジャーの愚痴を聞かなくていいから、私達、みんなが楽しく過ごせる。
だから、着いた次の日に早速、息子をこのお店に連れて行く!
そして、私と親友はバーゲンに行く!Good deal!

大阪にいた1週間は私は息子のエージェントのように、毎日、直人クンに電話。今日の予定を聞く。電話でのこういった複雑な会話はどうやら出来ないらしい。さすがに今年は日本語を喋りたいと、ついに息子は言った。
スケボの時間帯は夜中。9時から2時頃まで。
昼まで寝ていて夕方から動くというのがティーンエイジャーの生活。これは世界中共通のようだ。どこで滑るかと訊くと、空港と言う。うちから5分の伊丹空港。
雨になるみたいだけれど?というと、雨でも滑れますという。
どうやら、駐車場で滑るらしい。
一日だけ寝屋川のスケートパークに午前中から出掛けたが、ほとんど毎日が夜中のスケジュール。(残念ながらこの写真はない。息子がビデオに撮っているかもしれないが。)

信州に移動する前、最後の晩はどうしても遅くまでみんなと遊ばしてくれというんで、了解したものの3時を過ぎても電話がなく、電話しても通じないと、やはり不安になった。
最寄りの駅のあたりに行くと言っていたけれど、私もそれ以上のことはくわしいことも聞かなかった。
初心者運転のティーンエイジャーだし、事故?など疑ってくる。双方に電話しても通じないし、そうなると心配になって私も休めない。
4時前に電話があった。どこかの地下に居て電波が届かなかったと言う。
それがどこだったかというと、この写真の場所。
駅前のマクドナルの前の路地を入ったところとのこと。
これらの写真は息子が写っているのだから、直人が撮ったと思われる。
なかなかいい写真である。
壁画, バラにダイアモンド,女の子が逆さまになって口紅をつけている絵。
天井のスケートボード。
面白い!
有り難いことに息子や友達の前にビールの缶もタバコも写真の中に見当たらない。
親としての意見だが。笑。全てがデジタル化されているこのご時世に、レコードが!
この世代が、レコードを愛してくれたら有り難いことである。
(息子に訊いたら、DJ用のレコードとのこと)
私の16歳の小遣いは全てレコードに使ったと言って過言でない。このお酒のメニュー。美味しそうだけど。
まさか、オーダーしてないでしょうねぇ。
また母の意見を。笑。
息子が私のニコンの一眼レフを持って行きたいと言うので、折角、持ってきたのだから、使ってもらうことにした。
信州に着いてからカメラを使うと、オートレンズの調子がかなり悪い。
息子はカメラの調子が悪いので、撮るのを諦めたと言う。
確かに私が一度落としてから調子が悪いのだが、増々、調子が悪くなっている。
調子が良ければもっといい写真があったのかもしれないが、ここにあるのだけでも、いい写真と思う。証拠写真をありがとう。
こんなところなら、私もお邪魔したかった。3時でも。
こんなおばさんが息子についていくと煙たがられるよなぁ。笑。
帰国話、つづく、、、

2011年7月23日土曜日

暑いで始まる帰国話。

日本に7月2日に帰った時、成田空港ですでにム〜という暑さを飛行機から出たとたんに感じ、あぁ日本と思った。
地震の影響は節電と聞いていたし、町はネオンが消えて寂しいと言っていたけれど、空港が暑いとは思わなかった。全体的に暑いのではなく、ところどころ暑いのである。
この状況に慣れている人にはどうってことはないのだろうが、ム〜とした、汗がじとっと出る暑さは慣れていないとたまらない感である。

今回、予約が遅かったため国際線から国内線の乗り継ぎがうまく取れず、4時間もあった。
母が死んだ時に取れた飛行機は9時間待ち。9時間もあれば外に出れるので、私達はこの機会を利用して成田山に参拝に!あれは結構楽しかったなぁって今も思う。あれっきり,成田山に行けるチャンスはない。
教訓、マイナスに見えるチャンスを活かす。
しかし4時間では外にも出れず、それではゆっくり空港探索となった。
13時間の飛行機の度はエコノミーで旅する一般旅客者にとっては、大変疲れる旅である。首が痛い、腰が痛い、足が重いなどなど。
どこかに休養ルームがあるんじゃないかと探す気でいたので、国内線に荷物を預けてすぐに目にとまったのは、このシャワールームのサイン!
教訓、好奇心は視野を広げる。
2003年に2人で日本に来た。それは私にとっては10年ぶり、息子にとっては初めての日本だった。まず驚いたのは、コーラである。
アメリカの半分くらいの大きさのグラスに四角い氷をたっぷり入れたコーラが500円。しかもリフィール(おかわり)出来ない。余りに量がないので、氷はいらないといって頼むとそのグラスに半分以下のコーラを持ってくるのである。これはまさにジョーク!しかし、マジなのだ。アメリカで氷はいらないと言って注文しても、グラスに一杯入っている。
その後、息子は絶対にコーラは頼まない。
教訓日本でコーラは頼むな!

そのとき食べたカレーがとても美味しく、それが日本の味となって以来、成田空港に着いたらカレーを食べると決まっているので、早速、レストラン街に向かう。
いつもはアメリカンかJALで来るのだが、今回は金額と空いている席の都合によりコンチネンタルとなったため、第一ターミナルで第2ターミナルのいつもの カレー屋さんで食べれなかった。だから、私は違う物を食べたかったが、息子のカレーとなってしまった頭を変えることが出来ず、カレーとなった。私は担々麺 が食べたかった。日本中華の味はたまらない。日本での15日間、日本中華は食べずに終わってしまった。残念。

食事の後、シャワールームに行ってみた。30分、1000円と言われて、私達は2人とも諦めかけたが、経験代を払って
試すことにした。試さなければ分からない!
教訓同じチャンスは2度ない赤の暖簾が女性用、紺の暖簾が男性用。私が与えられた部屋は3番、私の好きな番号。広くて奇麗です。シャワーの中には椅子があり、座ってシャワーも浴びれます。鍵を貰えるので大きな荷物も置いたままで洗面室に行けます。ゆったりした洗面室で髪を乾かし、化粧して、完全リフレッシュ。
歯ブラシ、ブラシ、お水(ペットボトル)ティッシュは貰えます。
待合室。私は無駄なく30分を使ったが、息子は早く終えて、ここで待っていた。
奇麗さっぱりして16時間の疲れをとって、気分は上々!
けれど、30分を1時間にしてもいいのでは?もしくは30分、500円でもいいと思う。私の後に一人、女性の方が来られたが、需要はどのくらいあるのだろう?

この後、セキュリティーを通って中で残りの時間を過ごすことにした。
国際線も国内線のように番号ごとに部屋があったはずなのに通されたのはAからH、全目的地がワンフロアーに収容されていた。私達の前の便の人たちもまだ飛行機に乗っていなかったので、旅客者は一杯で座るところもなく、外人たちのほとんどは床に座っていた。
2階などにスペースはあるのに省エネで閉めているようだった。
冷房も温度を高く設定して節電しているらしく、人が多いとので空気はム〜っとしていた。
お金を出して奇麗になった私達は床に座る気がせず、見渡した限りベストな場所は空いているマッサージ機だった。
床に座っている人たちの前で豪華なマッサージ機に使わずただ座っている訳にもいかず、200円の経験代を払うことにした。
お風呂上がりにマッサージ。勿論、それは心地良く、調子に乗ってもう一回するか?と、息子共々、3回もしてしまった。苦笑!
2人で1200円の出費。
そうこうしているうちに、私達の搭乗時刻となった。

確かに日本は暑かった。市内に出る時は電車なので駅まで歩く。だから、暑いし汗もかく。
何もしないで座っていてもだらだらと汗が出る。サウナ状態!
後半の滞在地、信州は涼しいと思ったら、ところがどっこい!7月は暑い!涼しくなるのはお盆以降だというのをすっかり忘れていた。但し、家の中はさほど暑くなく、夜は涼しくなるのでエアコンはやはり要らない。住むなら信州と再確認した次第だ。
東京に戻ると、暑さは異常。きっと人が多いから余計にそう感じるのだろう。
クビにひどい湿疹ができてしまった。汗疹だと思うが、久々に出た汗疹だった。
アメリカに戻って来るとのNYエリアは猛暑に突入。毎日100度を超している。
雨が降らない!
なんと昨日は地域が電力の使い過ぎでオーバーヒートして、私のエリアは5時間も停電となった。

私達は暑い夏に弱い。けれど、夏は短い。暑いけれど、頑張ろう。私は忙しいのである!あぁ、けれど、めげるなぁ。この猛暑!
日本の話し、つづく。