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2008年12月28日日曜日

今年も終わりに。

長い間、日本語のブログを書かなかった。
すっかり、英語で生活している証拠だ。

今年のカレンダーは祝日の後に週末が来るので、長い休暇を取っている人が多いようだが、私は正月開けに仕上げなくてはならない仕事が一杯あるので、休む事など考えていず、カレンダーもチェックしなかっだ。クリスマス前にようやく多くの人がクリスマスからお正月、4日まで仕事を休んでいるという事に気付いたのである。
息子の学校も五日からである。アメリカは元旦だけが休みなので、二日から学校、仕事が始まり正月を満喫出来ないが、今年は出来るというカレンダーなのに、今のところ正月の予定はない。

息子はクリスマスの晩から大晦日まで、大金持ちの友達のおじさんの別荘に出かけてしまった。悲しいかな。

ようやくガソリンやオイルが元の値に戻ったものの、値上がってしまった他のものは値が下がらない。インフレは庶民を苦しめている。
1920−30の世界恐慌以来といわれるこの不況の中でも、クリスマス、正月は来る。

何年アメリカに住んでも、正月が来るとなると、私なりの準備がいる。
年末に大掃除をしていると、”なぜ?”と聞いたアメリカ人は沢山いる。
”一年の埃を落とさないといい年が来ないから”
と答えると、
”じゃぁ、私にはいい年は来ないわね。このホリデーに掃除なんかしたくないし。”
と言う。
サンクスギビング、クリスマスは家族で過ごし、大晦日は友達とパーティというのがアメリカ人の通常の考え方。大晦日はどこで酔っぱらおうかと考えているのかもしれない。

Hoodie家のサンクスギビングは息子の父親の誕生日でもあったので、うちでターキーを焼いて過ごした。クリスマスイブも息子の父親がクリスマスディッシュを持参してうちに来て、プレゼントの交換、ゲームをして過ごした。
息子は父親の選んだプレゼントを有り難く受け取り、文句を言わなかった。
リクエストした高いプレゼントをメールで受け取るより、楽しく一緒に過ごした一日のほうが価値があると私は思う。
息子は13歳になるが、3人で過ごした家族のホリデーの中では、今年のこの二日間はいままでで一番楽しかったと私は思う。
息子の父親(前夫)の人生、私の人生、別々に生きて10年。楽しい日があると一杯ある嫌な思い出も自然と薄らぐ。悪くないなぁとスマイル。

Hoodie家のしきたりによって、クリスマスは起きてすぐパジャマを着たまま、プレゼントを開けなければいけない。うちのお犬様、チャウダーも一緒に。
そして、この二日間は”クリスマスストーリー”という映画を一日中,繰り返し、繰り返し見る。(ケーブルで毎年24時間、この映画を放映してくれる。)
この映画の中で、彼らのクリスマスターキーは野良犬に食べられてしまい、チャイニーズレストランに行って北京ダックを食べる。
今年は私たちも映画のように、チャイニーズレストラン "北京ダックハウス” に行って、北京ダックを頂いた!
この映画は実に面白い!何回見ても面白い!見たこのない人は絶対見てください!
A Christmas Story (1983)

息子の小さい頃は、わざわざ違う包装紙でプレゼントをラッピングして、クッキーとミルクをサンタ様のためにおいて寝たものだが、もうそんな工作をしなくていいのは楽である。しかも息子も欲しい物がもらえるし、私もがっかりした息子の顔を見ずにすむ。
子供の成長とともにサンタはファンタジーから合理主義になる。

このところ、私は大晦日をパーティで過ごせない、そんな気分ではないという年を3年ほど送っている。
いずれ、またパーティ気分になるのを期待したいところだ。

31日、大晦日にHoodie家はスキーから戻り、日本のスーパーに行って、正月料理を確保する。
年越しそばを食べる。

タイムズスクエアのカウントダウンを待って、シャンペン!
A Happy New Year, then hug and kisses!

これがHoodie家のしきたり。

私たちより14時間早く、年が明ける日本です。
皆様、良いお年をお迎えください。

2008年11月6日木曜日

町のアートオークションショー

話しは後先してしまったが、前々のエピソードー町のアートオークションショーの結末を書こう。
このアートショーは毎年、ヒューストンのキルトショーと同じ頃になる。
今年も私のフライトの一日前だった。
小学校の図書館に作品を並べ、大体は小学校に通う子供を持つ両親が来る。息子が卒業する年に始まったこのショーに参加することになったのは、この収益はアートクラスに寄付されると聞いて、私はその時の美術の先生が私に時々、授業を手伝ってくれと頼んだりする仲だったので、卒業する前に何か役に立つ事をしようと思った訳である。
卒業してからもお誘いがかかるので、毎年出すことになったのである。子供たちが卒業してしまったので、私たちの学年の親たちはあまり来ないが、まだ下の子が小学校という場合もあるので、ちらほらと知っている顔も伺える。
アーティスト同士という事で7年前に知り合ったリサは毎年出展するので、少なくとも話し相手はいる。息子と同じ学年の男の子のお母さん(ハイディ)が2年続けて私の作品を手に入れて、”あなたの絵は来るべき家に飾られているから安心してね。”と言ってくれたが、今年の私の作品にはあまり興味がなかったようだ。

このショーに来るものは20ドルの20枚にちぎれる券の半券を自分が欲しい絵の前に吊るしてある紙袋に入れる。その券には番号がついていて、自分の名前も書ける。
ショーの最後は一つ一つの作品を紹介しながらクジを引く。
図書館の前がカフェテリアで広いので、みんなはそこに集まって、自分の番号が読み上げられるのを待つ。
最初の年は、狭い図書館でくじ引きもしたので、子供は一杯いるし、やや混雑していたが、2年目からは要領を得たようだ。
働く親たちのために小学校にはアフターケアがあり、このカフェテリアがその場所で親が迎えにくる5時から6時頃は、子供たちはここで遊んでいる。
私も息子を預けていたので、小さい子供たちが番号を読み上げる間中騒いでいるのを見て、
”あぁ、こういう時もあったんやなぁ”と昔を思い出す。

私は参加作家なので5枚の券をタダで貰える。始めてのショーで5枚の券で欲しかった絵が手に入ったので、毎年、この5枚に賭ける。
私はポールの作品ー彼がギリシャに言った時のスケッチ画。
と私の絵を2年続けて手に入れているハイディのご近所のアーティストのエッチングー線書きのモディファイされた人物画。この二つに分けて入れた。

私は随分楽しみに私の番号が呼ばれるのを待ったが、私のラッキーはなかった。

観覧の時間のときに、”この作品が好き、当たるといいぁ”と話しかけてくれた人が何人かいた、その作品。”SERVING WITCH AND HELPER CAT - SOUP FOR YOU"
当たるといいなぁと話しかけてくれたおばあさんに当たった。

もう一つの作品。”UNTIL"
今年はあまり時間がなかったので、一点にしようと思っていたが、インタビューと言われて2点に増やした作品。TVに映って欲しかった作品である。インタビュアーが欲しいと言ってくれた作品である。
これは9.11の後に落書きしたスケッチをコンピューターに入れて処理した作品で、3人が重なって十字を描いている。
その頃、書いていた小説のプリントの裏に落書きしたので、偶然、”まで”という字が裏返しで人の身体の中に浮き出ている。それをそのまま残し、出来上がった作品の周りに、この小説に書かれている、春と夏の詩を”まで”と同じようにリバースしてレイアウトした。

この説明がインタビュアーの心を買ったのである。

ポールが券を引いて、数字を読み始めて、”おっと、これは私の友達に当たりました”とすぐに作品を降ろした。”UNTIL”はインタビュアーに当たった。

ショーの後、ポールはごまかしはしていないとかたくなに私に主張した。

さて、そのTVのインタビューはオンエアされたのか?
ポールも私も衛星放送で、ケーブルではないので、このケーブル局の番組は見れない。
2,3日経つと、もうどうでもいいような気がした。

インタビューから五日目、もうアートオークションショーも終わった後、
私はヒューストンのキルトショーでお客様のお相手をしていた。

息子のアイスホッケーのチームメイトのお父さん、ジミーから電話があった。
”フーディ、TVに出てるで、今12チャンネルを見ていると、レオニアの町のアートショーの事を言っていて、あぁ、フーディの住んでいる町やと思っていると、フーディがインタービューに出た。”
とのこと。偶然にしても見ている人がいる訳や。

私の絵を手に入れた彼女は私のインタービューをカット出来なかったんやなぁ。
しかし、一体、なんと私は紹介されたんだろう?気になるなぁ。

ポールにTVに私たち出たらしいよとメール。彼も知らなかった。

このオンエアのコピーは貰えるらしいので、まぁ、届くのを待つ事にするか!

2008年11月5日水曜日

光が射した歴史に残る一夜。

ついに選挙の日。私の町は1週間前に、選挙日11月4日は休校と決めた。
息子はこの休みは釣りに行くと決めて、朝早く出かけるというので、私たちはロングアイランドにいた。
私のボーイフレンドは釣りの前にちゃんと投票に行った。
私は釣りにいかず、仕事を彼のところですることにした。
コンピューターをつけると、自動的にCNNのニュースのページが開く。

初のアフリカン、アメリカン大統領か?
初のオールディスト大統領か?
初の女性副大統領か?

待ちに待った日が来た。

投票結果は自分の家で見たいからと(彼の家にはTVはあるが、ケーブルに接続されてないので見れない) 私たちは急いで帰り、早速テレビをつけた。

ブッシュの時は最後の州に勝敗を預けたから、真夜中まで結論が出なかった。今回もそうなるかもしれないので、息子に明日になるかもよ,などと言っていたが、喜びの声はラッキーにも早く聞くことが出来た。開票中から道を挟んだ真向かいの家からは”オバマ”コールが聞こえ、初のアフリカン、アメリカン大統領のアナウンスを待っていた。
うちの息子と同じ学年の黒人の女の子の家族である。
彼らの家の前庭に”オバマ、バイデンを支持する”という看板が立ててあり、息子はうちにもあの看板が欲しいと言っていたが掲げずに、今日という日が来た。

オバマが当選を決めた。前の家のフィーバーはさらに甲高となった。
”あんたも参加してくればいいのに、知り合いなんやろ?”
と息子に言ったが、
”僕は変な奴と思われてるから”と行かなかったが、
私は参加したい気持ちだった。

アメリカに光が見えた。

私はもしオバマが負けたら、日本に帰るとかカナダに移住するとか言っていたが、これでアメリカに残る理由があるのだ。
62,450,831(彼に投票した数)のアメリカ人がオバマの当選演説を涙して聞いた。
彼が呼びかける言葉に
”Yes, we can!"
とエコーした。
黒人も白人も東洋人もヒスパニックもアメリカの将来を彼に託して、涙を流しながら、
”Yes, we can!"
と叫んだ。
アメリカがアメリカに戻った気がした。
インフレーションでみんながネガティブに移行している時だっただけに、
”Yes, we can!"
この言葉は重みのある言葉に聞こえた。

Congratulations!


オバマにはミリオンのガードマンがいるねぇ。ケネディの時のようにならなければいいけれど、、、、
と言ってしまって、自分の言葉にドキッとしたが、
オバマには最後まで彼の強い意志を貫いて欲しい。
彼にはカリスマがある。時に選ばれた人と言う何かがある。
少なくとも、自分が選んだアメリカという国を代表する人を支持したいと私は思う。
それが出来なかった8年間もそろそろ終わるのである。
長い長い悪夢のブッシュ政権の終わりを、この光で私は笑みを浮かべることが出来た。

アメリカに”未来”はまだある。
そう思わしてくれた、最高の感動の一夜である。

2008年10月17日金曜日

2倍以上の努力。

最後の討論会を終え,11月4日を待つ事になった。
息子はYouTube漬けで、全ての彼の知識はここから来る。
これは見とかなあかんでぇと見せられたのは、ペイリンラリーで集まったギャラリーにインタビュー。オバマをテロリストと非難。凄い剣幕や。
この集まりに関する事も討論会で出た。

討論会での話題は”ジョー ザ プラマー”=ジョーという配管工に。
新聞をちゃんと読む私のボーイフレンドの話しによると、話題になりすぎて、ぼろが出たそうな。
ライセンス(許可書)を持っていなかったらしい。しかも。彼を雇っている会社もライセンスがなかったとか!とんだ茶番劇や。
ジョーという配管工の儲けたお金は,税金、云々の話しに入る以前の問題となる。

選挙の話しはやはり通常の会話に出てくるが、その相手がどちら側についているか話す前に分かっていないと、相手の怒りを買うことになるので,私は聞き耳を立ててから話しに参加する事にしている。意外とマッケインに入れるという人が多いので驚いているところである。
私が間違っているんだろうか?と彼らの意見も聞いてみる事にはしているが、大概はイライラして来てその場を立ち去る。

討論会の最後に、オバマが共和党であろうが民主党であろうが,今は協力し合ってアメリカを立て直す事が先決だと閉めた言葉があまり報道されていない。
個人の損得より、世界全体の問題だという事を理解したら、マッケインに入れるはずがないと思うのは私だけなのだろうか?
8年前から私はアメリカが分からない。

私たちのようなカラードは白人の2倍以上努力しないと認められないと私は思う。
白人と私といたら、どちらに先に話しかけると思う?
と息子に言うと、
こないだの僕のパスポートの時みたいに?
というのは、
息子のパスポートの申請のとき,両親のサインが必要とありという事で、のんびりメールのやり取りしている時間がなかったので、別れた夫に来てもらった。
町の役所で申請出来るのだが、必要な書類を前もって揃えておきたいと電話すると、役所の女は無礼な喋り方で対応した。
2人そろって窓口に行くと,息子も連れてこないと認知出来ないという。
私と話す彼女の口調で私のいい分は理解出来たらしい前夫は、別のところに行くか?と一時はこぼしたが、時間がないので息子を連れて,再び,同じ窓口に戻った。
日にちの書き方が間違っていると、その女が失礼な喋り方で私に対応。イギリス人の前夫は、俺に任せろと私を退かして奇麗なイギリス英語で,”オー,すみません。イギリスではこういう順序で書くんですよ。その写真、お宅の息子さん?”とその女は忽ち,態度を変えて、“いいえ,私の孫ですよ。そうねぇ、アメリカだけでしょうか?こういった順序で書くのは?云々”口調はがらっと変わった。
息子はその女の態度を不快に思ったと言った。

黒人の友達とスケートボードをしていたら、警察官に詰問され、その黒人の子に夕べもここに来ていただろうと迫ったという。その夜はその子はうちに泊まっていた。
息子がそう弁護しても,しつこく詰問したとう言う。けれど,白人に見える息子には何も言わなかったらしい。

日本人は自分たちの事を特別白人と認識している。人種差別には疎い。しかもこちらに住んでいても,日本人社会に50%いれば、人種差別の屈辱を味わう回数は減る。
立場が高いところにいれば、又その回数は減る。
だが,100%アメリカ人社会で明らかに第2カ国語を喋っていると分かる私何ぞは、直接の風当たりが強い。

オバマが何度も討論会の最中に黒人である事を強調したかったに違いない。
金の無駄遣いだ、増税だと話をツィストして攻撃するマッケインに対して、
黒人であるが故に、ここまで来るには白人の2倍以上の努力が、お金が必要だったと言いたいに違いない。

今日,町のアートオークションのTVインタビューがあった。このショーを企画しているポールは私に是非来て欲しいとのメール。実際この時間が私には便利な時間だったので,作品を持って出かけた。私の後に白人のアーティストが作品を持って現れた。
私は日本語なまりの英語でテレビに出たいとは思っていないが,私のアートは映して欲しかった。
さて,インタビュアーはどうしたか?
勿論、その白人にインタビューを先に頼んだ。
私の作品を見て,その説明をしたら、がらっと態度は変わった。

ケーブルテレビだけのチャンネルで、うちは衛星放送に契約しているので、日本語なまりの私がテレビにでるかどうか、私の家では分からない。

ポールからメールが来て,私の作品にオークションすると彼女が言ったそうな。

2008年10月8日水曜日

大統領候補のタウンホール討論会。

一回目の討論会はほとんど最後の辺りで気がついてテレビをつけたが仕事をしながら聞いていたので、今回は見逃すまいとテレビの前で時間が来るのを待っていた。

マッケインさん,頼むから私たちに向かって”Dear my Friends”と呼ばないでください。
私はあなたの友達じゃない。
繰り返し繰り返し,”私には出来る”とおっしゃった。
この恐慌は100年ぶりと言われているが、私には経験があるといくらおっしゃっても、あなたがそこそこお歳を召していて身体の半分以上お棺に突っ込んでいらしても、100年前の事はご経験にないはず!
息子は
”マッケインは腕も上げられへん。見てみ、マイクの持ち方が自然やないやろ。”
そういえば,そんな感じもしたが、討論会の後,元気よく手を挙げたので息子の話しはガセネタということになる。
だが、マッケインの歩き方を見ていて思ったのだが、
”ふらついている”
ーーこの人、ミスチーフナイトに(ハロウィンの前夜に子供たちがいたずらで生卵をあちらこちらに投げつける。警察は大忙し。)卵を投げつけられたら、心臓発作で死んでしまうかもしれない。もし,死ぬなら選挙前であって欲しいなぁ。

オバマはそんなマッケインに、
”オバマは増税しようとしている”という攻撃に反論しようとして司会者から,”時間がないので次の話題に、、、”と発言を拒まれ、年金の質問に移ったにも限らず、中流階級の減税を力説して、年金の話に移ってうまく話しを短い時間の中でまとめたのは,さすが弁護士の実力あり。
オバマはこんな無駄使いをしたなどと、個人的な子供っぽいアタックをされても、素知らぬ顔で政策を述べ、マッケインが”オバマは分かっていない。全ては彼の経歴に示されている”と攻撃したときも、オバマは、”確かに僕にはあなたたちのやっている事が分からない”と反論。
”声を大にしてと”攻撃されたが、”熱が入っている”というだけで,声を大にしているとは思えなかった。8年もブッシュ政権で苦境に落とし込まれたアメリカに,声を大にしていいたいのはオバマだけではない。マッケインの40代の元気に立ち往生が出来ないジェラス?つまらない経験より、前向きなエネルギーをアメリカや世界は必要としているのはないか?
僕は祖母に育てられ、母はフードスタンプを与えられ,学費にも苦労しながら学び,まだアメリカにもアメリカンドリームは存在するという事、その期待を国民に与えるために大統領選に立つ事を決めたと最後をくくったが、そんな事を言ったという記事は私がちらっと読んだニュースには書かれていなかった。
どんな政策よりこの言葉の方が大切だと思う。
黒人の血を持つアメリカ人がアメリカに代表になるという事はあり得なかったと付け加えたかったろう。
当選してぐうたらな事をしたら、”黒人だから”と言われるのを彼は知っている。
初の黒人の大統領を汚名にしたくないだろう。
だから彼は出来るだけの努力するだろう。
選挙に勝つという事は至難がそこから始まるという事を彼は知っているだろう。
マッケインは裏工作人たちに槍でお尻を突つかれながら,勝つ事だけを目的にしている。
勝てばマッケインの指名は終わるのである。
リパブリカンは大統領のいない政治に慣れているのである。

基盤さえあれば経験は自分でして行くものである。
今のこの時勢を対処出来るかどうかは,経験だけではなく体力と努力である。
下手に過去を知らない方がうまくいく事もある。

討論会の後、20歳そこそこの子が10人ほど集まっていて(オハイオ州)、どちらに投票するかと聞くと、4人がマッケイン、2人がオバマ、後は未定という。マッケイン派になぜかと質問すると、”マッケインには経験があり、、、云々” 20歳の子の意見だけではなく、どうやら親が絡んでいる、彼らはそんな風に考えるように育ったんやと私は思い,,,途中でテレビを切った。

国民が直接質問できるはずの討論会だっていうのに参加者はかろうじて質問を読むだけで、自分の意見を述べない。
まだ放映中だというのにカメラをパチリ、パチリしている”選ばれた”という参加者。
この討論会を見た後、経験があるマッケインに投票すると言っている人たち。

全く,アメリカ人はどうなってしまったんだろう。

大統領候補の討論より、アメリカ国民の姿勢を見て、

あぁ,見いひんかったら良かったなぁ,

あぁ、アメリカの先はないなぁ

と後味の悪いものが残った。

2008年10月3日金曜日

副大統領候補の討論会

副大統領の討論会が夕べ行なわれた。当の大統領の討論会より私は興味があった。
ペイリンが選任されてから報道がペイリンに注目したせいでバイデンは彼女の影に隠れていた。双方お目見えの討論会は国民の興味をそそり、過去にない視聴率だったろうと私は予測する。
宿題でニュースの出来事を自分で選んで、その感想を書くというのがあるので、ソーシャルスタディの授業では選挙の事も話題に出ているようで、この討論会の事についてのレポートを書くとボーナスポイントが貰えると息子は言っていた。
私も朝からこの討論会は見逃せないといいながらテレビを見る癖のない私はうっかりしていて30分過ぎてから,チャンネルを息子のチャンネルから切り替えた。息子は半分見逃したからレポートは書けないと簡単に諦める始末。
しかし,私は今朝、CNNのリプレイで30分をちゃんと埋めたので,レポートは出せると思う。
その前に触れておきたい。
私の彼氏がFOXは共和党寄りのレポートを意識的に出すというので、私はABCでこの討論会を見た。という事なら,この討論会をテレビで見る前に既に票は2分しているのではないか?決めかねている人たちはどのチャンネルをつけたかで、決断に影響するではないか?

結論から話そう。

ペイリンは知識、経験のなさをお喋りのうまさで隠し、しかもカメラに目線をおいて、時々視聴者にウインクまでして演出効果満天、世界の大国アメリカの問題をアラスカに置き換え,さらに家計簿と睨め合っている主婦の視点に合わせ,庶民の好感度は押さえたと思う。とんでもない返答をしてくれないかと期待していた私を裏切って、裏方さんのトレニーングの成果はあり、線路上での討論をしたと思う。

バイデンも失言癖あると指摘され裏方さんは気を病んだかもしれないが、彼もトレーニングの効果ありで、失言はなかったと思う。ペイリンの口調のうまさに乱される気配はやや感じ取ったが、知識と経験のある彼はペイリンの個人のバックグランドの話しにつきあいながら、世界のピクチャーを家庭の台所に移されても、世界の大国アメリカの問題としてリーズナブルに取り組む姿勢を主張したと思う。

心配なのは、生ものの寿司なんか喰えるか、ジューシーなステーキが最高食だと信じきっているミッドアメリカの井の中の蛙たちはペイリンの誰にでも言えるスローガンを信じるかもしれない。
いかにペイレンが話し上手を演出したところで、経験不足は必ず表面に出てくるはずである。
それに気付くのに4年をかける訳にはいかない。

71ににもなり、お先が知れている軍人上がりのマッケインにブッシュが始めた戦争の続きなどさせられない。彼はベトナム戦争で何を学んだのか? 
映画、War Gameでも見た方がいい。
アタックし合ってもTic Tac Toe Gameを繰り返えし、滅び合うだけで勝利などあり得ないのだ。
今のままの健康保険制度では、見殺しシステムだし、教育は日本の教育の半分程度しか得られず、お金で買った博士号は前線で50%のラッキー人にしか活用出来ず、親が払えない学費は自分で負担するので働く前から借金に追われる20代。経済が破綻して就職も儘ならず、ローンと税金の支払いで生活費は火の車。中流階級は本当に死にものぐるいである。

英語コンプレックスのある日本人には、英語で喋られると私たちより優位な立場だと思ったりするが、英語でニュースを理解し、やや複雑なトピックスでも口論出来るようになると、通常のアメリカ人の知識不足にはうんざりする。
そんな事は中学で習わなかったぁ?といいたくなるほど,彼らは何も知らない。
私のプアな英語の発音やセンテンスを指摘するより,君たちの知識を修正した方がいいのではないか?と言ってしまいそうになる時もあるが、じーっと我慢するのである。
息子も日本人の同じ歳の子供と比べると学校で学んでいる事は非常に低いレベルだと思う。
出来る子供には優しく、落ちこぼれには冷たい。本人のやる気のみが評価される国だ。

先日、”Taitan"というスポーツ映画をたまたまケーブルでやっていて、再度見た。スポーツ映画のランキングではトップクラス。黒人と白人で構成された高校のフットボールチームの勝利のお話。人種差別や友情,信頼,心の入った実話に基づいて作った映画。
映画の途中で、

”今、アメリカは黒人の大統領を必要としている。”

と突然言った私に息子は、

”なにゆうてんねん”

“いずれは日本人の血が入ったあんたが大統領にでもなるか?”

”なにゆうてんねん”

”政治になんか,かかわらんほうがええ。”

”なにゆうてんねん”

と確かに最近の私はランダムに物を考えているようである。

2008年10月2日木曜日

食べ物の値上げ

最近目に見えて,物価が上がって庶民を苦しめている。
レストランやスーパーマーケットに行くと値段の改正が目に付く。
この4年で、物に寄れば2倍近く上がっている。
NYにも何店かあり,支店がNJ,私の近所にある回転寿しは一皿1ドルからだったのが、先日行くと1ドル75セントになっていた。25セントずつ,半年か1年に一回ぐらいの小期間でで上げている。息子でさえ、メニューを指差して,”見てみぃ”という具合だ。しかも、質が落ちている。
系列のラーメン屋もセット価格が改正されていた。
おいしくなくなって,値段が上がると、これでは食べる気がしないなぁと食べる量も減る。

私が大嫌いなのは,スーパーマーケットに行く事。
15年も住むとアメリカンフードの質の悪さから、グロサリーショッピングの意欲を失わさせる。しかも、値段がどんどん上がっていくと、ますます行かなくなる。
2人きりの家族では,アメリカのスーパーで売っている量は大量すぎて使いこなせない。
息子は古いと思われるものにはいっさい手をつけない。たとえ冷凍していても、そんな昔のもの食べられへんと言って食べてくれない。
結局買ったものは食べる前に,廃品となる。
去年の夏に日本に帰った時,COSCOが日本に上陸というニュースを読んだが、COSCOなんて日本にはいらないんじゃないかと思う。日本は核家族で,収 納スペースも足らないところが多いし、あちらこちらにお店はあるし、大量に物を買わなければならない理由がないんじゃないかと思う。アメリカにいる私でさえ,実質COSCOは必要ないと言えば,必要がない。年に4回行けば満足する程度である。
COSCOやアメリカのス−パーで買うのはペーパーナプキンやトイレットペーパー、シャンプーや石けん、電池や電球こういったものだけとなり、野菜や肉や魚は韓国人のスーパーに行く。
しかし,韓国スーパーも昔は5,7束の青ネギが1ドルだったのが,今は3束で1ドル。
量が変わらなかったものは2倍の値段になり、値上がりしていないものは量が半分になっている。
最悪な状態は,量が減り,味が落ち,値段が上がること。一旦,上がるとなかなか値段が落ちないこと。徐々に経済は最悪に近づいていると言って過言ではない。

2人きりの食事なら、一人分のメニューで充分な事も多い。我が家の問題は息子の食べる量が年々増し、食べ物の好みが私と異なっているため,同じメニューを頼めない。但し,私の食欲が減っているため、アップターザーメニューで済ます事が増えて来た。
しかも肉料理に興味が薄れ、ベジタリアン料理で満足するのだが,野菜が高いのだからベジタリアン料理も安くない。シーフードは肉料理の20%増し。
外に食べに行っても量を加減すれば,家で料理を作るのとさほど変わらない値段になる事も多いのは,スーパーで売っているものの質の低下と量の多さ,値段の沸騰にある。
ますます私はスーパーに行かなくなる。
今日は何を食べようやと考えるのも,最近は苦痛である。

日本に帰ってスーパーに行くと私は興奮する。全てのものはこちらの日本のスーパーで買う半額。しかもおいしそうで種類は10倍。短い滞在で食べれる量はしれているので、何を食べようかと考えているだけで飽和状態になる。量をみて、これで足りるのかなぁとアメリカ量になれている私は思うが,食べてみると充分な量であると知る。日本のものは全てアメリカサイズの70%と言っていい。
けれど量の多さに慣れている私たちは、仮に食べきれなくても量が少ないと損をした気になる。こないだメキシカン料理屋に行くといつもついてくるブラックビーンの量が半分くらいで、息子は少ないと文句をウエートレスに言うと同じ量のブラックビーンを持って来てくれたが、実際,そんなに食べなくてもいいのである。
食べきれなくてお持ち帰りにすることになれている私たちでも、食べ残しはおいしくないので、結局捨ててしまう事の方が多い。
アメリカのダイナーやファミリーレストランのようなところは、ソーダやコーヒーは飲み放題だった。ウエートレスがコークのお変わりは?なんて息子にきいて、“イエス”と答えて2杯目を飲みきれないで、伝票を見ると2杯分チャージされている事がある。これは詐欺であると言いたい。最近は私も息子もチャージされるかどうかきいて,2杯目を頼む事にしている。コークのカップのサイズは日本の2倍くらいあるから砂糖とカフェインがたっぷり入ったコークを2杯も飲む必要はないのだから、お水でいいのである。

質のいいものを必要な量だけ取る。こうでなくてはいけない。

ここで私はアメリカ人に提案したい。
今までは量が多すぎたのだから,値段は崩さず量を減らして欲しい。

そうすれば,比例してアメリカ人の食生活も量が押さえられて,肥満もややコントール出来るかもしれないのでは?と思う。
食べ物の値上がりが食生活の改善になればいいとも思う。

2008年9月23日火曜日

景気と大統領選と、、。

1993年、日本経済はバブルの崩壊で下降の最中、私は日本を出た。バブルの体験のある人は覚えていると思うが、お金が歩いているみたいにだった。経費で気兼ねなく遊べた。2000万の家が8000万近くまでに跳ね上がったのだから、一般市民まで金持ち気分になった。一度そういう気分にされたから、落ちるとつらい。
その頃に父の納骨も済まし、人生に賭けをするにはこれ以上待てないなぁと20からの夢のアメリカ行きを結構、スーツケース一つで渡米。

”フリちゃん、アメリカに行くねんてぇ。”
”うん、行ったら、もう帰ってけえへん。”
”今度、フリちゃんがが帰ってくるときには、俺らみんな国に帰っているかもしれんなぁ。”
と言ったのは、仕事仲間の某氏。

私情もろもろで10年帰国出来なかった私は、それからの日本の事は詳しくない。コンピューターも持っていなかったし、電話代も今のように安くなかったし。
1995年に神戸の大震災。母の消息が分からず、丸一日、電話が通じるまで眠れなかった。経済が混乱しているときに、神戸に大地震だなんて!妊娠7ヶ月の私は日本に帰る事も出来ず、遠くから日本を案じていた。
日本経済の破綻は随分長く続いたようであったが、私は日本の経済とはいっさい切り離された生活をしていた。

おかげ様で私の属する業界は景気が良く,私が仕事に困るという事はなく、個人的に苦しい状態の時も仕事だけはあった。
15年ここに住んで,現在ほど不景気を強いられている気分を味わった事がない。私が頑張ればどうにかなるという問題ではない気がする。
ガソリンは13年前の4倍。燃費が上がるとそれに伴って全てが上がる。給料はそれに比例しないのだから,おのずと生活費に負担がかかる。不満があっても現在維持か?動くのか?動くとすればどの方向に動くのか?頭を使わなくてはならない。個人の努力にも限界がある。

ブッシュの当選、8年前からのアメリカ経済の下降は止めようがない。
私は元CIAの彼の父親が大嫌いだった。優等生として選ばれた地位を国外で自分たちの都合のいいように権威の乱用して指揮を執り、その行いがアメリカ人の末端に影響するなど考えないCIA。CIAあがりが国の総領になったら、あちこちから顰蹙を買うに決まっている。親がした事などちっとも分かっていない能無し息子が国の代表になるなんて気違いごとだ。と思った私の考えとは裏腹に、ブッシュは当選した。
ブッシュの裏方たちが、CIA wayで裏工作したとはいえ、自分の意志でブッシュに票を入れたアメリカ人は沢山いるのである。
しかも4年後に、再選するなんてとんでもない事が起こった。
2度の屈辱の大統領選挙。
一体、誰が彼に投票しているんだろうか???

日本いた時からの知り合いのアメリカ人の家族と懇意にしていて、2度めのブッシュの当選後怒りに満ちていた私は興味げに、
”あんたはどっちに入れたん?と5人姉妹のうちの一人に聞くと、
”ブッシュ”と答えた。この家族のほとんどは”ブッシュ”に入れたというのだ。
気を鎮めて、
”なんで?”と聞き返した。
”中絶に反対しているから。聖書には、イエスキリスト様は、、、云々”自分の子供を指差して、
”こんな罪もない子を殺すなんて,,,,云々”
言葉もなく退散して、じわじわとこの言葉にひどく憤りを感じた。
彼らはそのかわいい子たちが戦場で命を落とす事には関心がないのか???
こんな理由で入れた一票、一票がアメリカを堕落させるのだ。
彼女の夫は最近、職を変えた。そこの社長は元アーミーで戦争用品を扱っているのだそうで、儲かって仕方がないと仕事に満足しているようだ。ブッシュ様々だ。
イギリス人のアル中の夫と別れて3,4年間、彼らの誘いで教会に通い詰めた私は、このあたりから、とても冷静に”イエスキリスト様が、、、云々と話す人たちのお話を聞くになれなくなった。 
前夫(バックグランド−プロテスタント)とまだ一緒だった頃,彼が、この宗教心に執拗な家族に相反して、私のバックグランドに肩入れして、”仏教を学んでもいいなぁ。宗教をかざして戦争をしないし。”と言った事があったが、やや正しい。宗教対立はあっても、十字軍のような事は仏教ではしない、ーーと思う。

11月4日、あれから4年、待ちに待ったカウントダウンである。
ヒラリーvs オバマで国民は熱くなり、マッケイン&ペイリンvs オバマで景気最悪のアメリカは最大の選択を迫られる。リパブリカンかデモクラティックかという選択だけではなく、男か女か、白人か黒人かという単純な選択も含まれている。
もちろん、私はオバマを支援する。
オバマが政権を握ればアメリカはよくなるのか?ここまで悪くなったアメリカが一夜で変わるなどとは思われないが、将来に対する期待ぐらいはほしいものである。どうしても、ペイリンだけはごめん被りたい。ウウウウーーー背筋がぞっとする女だ。ヒラリーの女性票を確保するダミー。自分の家族さえ面倒見れない女。死にかけのマッケインの後継になるかもしれない女。マッケインに政権を渡すなんて、危険な要素ばかりだ。結局,ブッシュと同じで裏工作人たちにアメリカを引き渡す結果になる。
なぜマッケイン&ペイリンに入れたかと尋ねて、
”女の権威が、、、、云々”と誰かが答えたら、私はきっと切れてしまう。
女は強くなりすぎた。元々女は芯が強いのだから、わざわざ強調しなくてもいい。男がしっかりするべき時代になったと私は思う。女が表に出過ぎて意気地のない男を作っても仕方がない。(私がその代表だが、密かに強い男に憧れている。)
こんなときにペイリンの眼鏡がトレンドになり,日本製の眼鏡を1000ドル以上出して買える人間たちが一杯いる。
”黒人には投票したくなかった”などと誰かが言ったら、鏡を見ろと言ってやりたい。色で口のきき方,態度を変える、心が黒い白人が、5万といる。
大統領選に投票するアメリカ人の理由が真っ当であって欲しいのだが、おそらく私の期待をアメリカ人はまた裏切るに違いない。私のようなグリーンカード保持者には選挙権がない。
私の友達関係は100%アンチ、ブッシュ派。政治論になるとみんな興奮してくるので、しない方がいい。こういう話題は人を選んでしないと、何かと問題事になる!

教育,保険、ローン、就職、など一般の国民の負担は限りなくある。その上、戦争、宗教,人種差別,移民問題などのおまけ付きである。
退職プランでお金を貯めていても15−25%も投資率がダウンすると金額が大きければ大きいほど損害は大きく、のんびりと生活するなんて夢はどんどん遠のいていく。
昔は日本が何でも高すぎて,アメリカに来ると何でも安い気がしたが,今は全く逆で、ここは何でも途方もなく高い。税金、光熱費,医療費,必要不可欠なものが日本の何倍もする。
ニューヨークが好きというだけの理由でアメリカに留まるには充分でないなぁとため息をつく。

日本は長い不景気の中、不景気なりの景気を取り戻したから,お金を使わない事にすっかり慣れている。
仕事仲間の某氏は国に帰る事もなく、仕事の方向転換はしてもちゃんと生き残っているし、私の知り合いは皆、それなりの生活を保っている。実力のあるものはちゃんと生き残っている。
私も現在のアメリカの状態を深刻な事態と認識しながら、寝て好機を待つ訳にも行かず、小さな事をコツコツこなす毎日の積み重ねが結果に通じると信じて、出来る事をちゃんとこなすことに専念して、今日も忙しく一日を終える!

2008年9月17日水曜日

元気が出る偶然。

今日は仕事の打ち合わせの後、お友達のマークとTribeca Grill トライベッカグリルでお昼ご飯を食べた。
マークはこちらに来てすぐに仕事をした会社で知り合ってからの友達だから、かれこれ12年ぐらいの付き合いになる。NYに仕事に出る時は必ず連絡を取って、今日はお昼を一緒にするかどうか確認する。私が帰国した時、彼はハワイにいて、一ヶ月以上逢わなかったので、私たちのお気に入りのトライベッカグリルでお昼にしようとマークは言った。トライベッカグリルとはロバート デニーロが経営するレストラン。トライベッカとはずーと下(南)に降りたワールドトレードセンターに行くまでにある地域。私がNY市内に住むなら、迷わずこの辺りのロフトを探したい。
私はここのランチメニューが大好き。29ドルのセット。スープかサラダ、メインディッシュはパスタかサーモン、デザート付き。コーヒーは別途。素敵なレストランでこのメニューを29ドルでいただけるのは有り難い。マークは単品から選びたいと言って、スープとロブスターの品を頼んだ。9ドルと19ドルで28ドル。それに12ドルのホワイトワインを付け、最後にカプチーノで締めくくったので45ドル。私たちは年に何回かこの贅沢を楽しむ!

私たちがオーダーし終わった頃、3人のお客さんが入って来た。彼らのテーブルは私たちの斜め前で、6人がけの丸いテーブル。背の高い黒人が席に着いた後、トイレに行くのかこちらを向いて私の席の後ろに来た時、その顔を見て、、、、この顔知っていると思った。彼が通り過ぎてすぐ、私はマークに、”サミュエル(Samuel)、サミュエル、サミュエル”と繰り返すと、マークは”ジャクソン(Jackson)、ジャクソン”と言った。
”そうやんねぇ、サミュエル,ジャクソン(Samuel L. Jackson)やねぇ。”と言うと、”そうや、彼や!”とマークも言う。
その後,3人が現れ,サミュエル,ジャクソンの6人テーブルは楽しそうな雰囲気であった。
偉く有名な俳優がそこにいるというだけで,私たちはうきうきして、私たちの会話を楽しみながら御馳走を頂いた。

ここで有名人にあったのはこれが2回目。14年ほど前にハービー ケイテル(Harvey Keitel) が一人でテラスのテーブルでランチを召し上がっていらした!私は丁度、彼の最新作の映画 "ピアノ”を見たところだったんで、凄くドキドキした。(理由は映画を見ていただく見ていただくと分かります。)

7月の末、私の彼氏の息子の32歳の誕生日に3人で食事をすることになり、ウエストビレッジのPearl Oyster Bar パールオイスターバーと言うシーフード老舗に行った。予約出来ないので、席に着けるまで30分ほどかかったが、ビールを頼んで飲み始めていたし,じーっと見なくても目に入るところに有名人がいるので、そこにいるのが苦にならなかった。
最近の作品ではスパイーダーマン3、カメラマンで黒い悪の衣装に取り憑かれスパイダーマンの敵となり、最後に死んでしまう役のトーファ グレース(Topher Grace)がお友達とお食事中。
彼はテレビのドラマでアシュトン カッチャー(Ashton Kutcher )と出ていたので,アメリカでは名は知られている。

2年前、私がいつも車を入れる20丁目西の駐車場の前で3人のでかいボディーガードの真ん中でフェミニンに歩いているカルロス サンタナ(Carlos Santana)とすれ違った。
自慢げに元ギターリストだった彼氏に即座に電話!

母がアメリカに来た時、メトロポリタン美術館に行って閉館になった後,裏のセントラルパーに行くとダン フッターマン(Dan Futterman )が1歳ぐらいの子供を自転車に乗せて友達と話しをしていた。たまたま彼は母の後ろに立っていたので、母を写すフリをして彼に焦点をおいて隠し撮りした。彼の名前を聞いてもピンと来ないかもしれないが,彼はバードケージ(1996)ロビンウィリアムス、ゲイのカップルの息子役をした役者。カポーテ(Capote−2005)ではスクリープレーのライターでノミネートされた才覚ある男前である。

40になった時、息子の父親とはまだ夫婦で、お祝いにブロードウェイのプレイを見に行った。私たちの斜め前にボディーガードに囲まれたジュリアーニ(Rudolph W. Giuliani)が座っていた。NYを一掃した彼,9/11の時の彼、私は彼を敬愛していたので、目の前に彼がいるのが信じられなかった。

これは私の話しではないが、大好きな話しの一つ。
10年仕事をした前の仕事先は21丁目にあり、同じビルに芸能プロダクションがあるらしい。
カスタマーサビースのTがエレベーターに乗り込むと,そこにリチャード ギア(Richard Gere)がいた。エレベーターで2人きりになった彼女は、”ハイ、リッチ!”と言ったらしい。
彼はにっこりと笑みを返したらしい。嫌な顔をしなかったのだから、やっぱ、いい男だなぁと思った!みんな,私も含めて,こんな偶然を期待したが、エレベーターでリチャード ギアと2人きりになるなんて偶然は誰にもやってこなかった。

NYが面白いのは,自分も映画の一場面にいてもおかしくないよう一コマがあちらこちらにある事。この町であちらこちらで撮影があるが、ここに住むものは彼らの仕事の邪魔はしない。世界で最も撮影し易いところと云われるのは,ニューヨーカーの行儀の良さにある。

余談だが、前日に電柱に車をぶつけて落ち込んでた私もおいしいランチと実のあるミーティングで元気を取り戻した。NY様々であった。

2008年9月11日木曜日

7年目の9.11

ようやく一昨日、NYに出かけた。
仕事のアポイントのキャンセルで、帰国後なかなかNYに出かける機会がなかった。
ジョージワシントン橋から2分といっても、ここはNJ。ここにはマンハッタンの陰りが全くない。NJではマンハッタンのことをNYと呼ぶ。最初はどうしてマンハッタンといわないのかと?不思議に思ったが、州が違うのだから、NYでいいのである。マンハッタン以外は、ブルックリン、クィーンズ、ロングアイランドと地名で呼び、北の方のNY州はUp State of NYと言うのだからマンハッタンはNYでいい。今や私もマンハッタンに行くとは言わなくなった。

14年も続いた仕事関係を断ち切った時、私はNYに出かける機会がなくなったことを一番悲しんだ。
NYの景色を見ると、あぁ、ここが私の場所なんや!と自覚する。
天気のいい日は私の住んでいる地域は、エンパイアステートビルディング、摩天楼が見える。ハドソン川を挟んで州が違うなどとはとても思えないほど、近くに見える。

あの町に行かなくなったら、私はもうお仕舞だ!と思うほど、NYが好きである。
NYは仕事をするから面白いところだと思っている。それなのに3ヶ月間、私はNYでの仕事がなかった。
有り難いことにサンクスギビングからクリスマス、お正月、その後、私の誕生日辺りは日本に帰国していたし、バタバタと日が過ぎてくれたようにも思う。
仕事でNYに行かないという恐怖感がホリーディシーズンでやや救われたかもしれない。

目の前にあるNYになかなか行けなかったのは9.11の後のこと。
私はいつも火曜日に仕事先に顔を出していたが、日本からのお客さんが月曜日に来るということで、予定を変更した。
仕事の確認のため仕事先に9時に電話をした。Kは声を殺して、”テレビを見ているか?"と訊く。息子を学校に送ってさぁ仕事にかかろうかという時間にテレビを付けるはずがない。CNNを見ろというのでテレビを付けると、飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んでいる映像。カスタマーサービスのTの娘がこのビルで働いていて、彼女は娘の安否が分からずパニック状態、その最中に電話をかけた私にTを気遣ってひそひそ声で状況を説明した。なんてすごい事故なんだ。
それからは、私は電話を片手にテレビに釘付けとなった。母に私がNJに居ることを連絡した。母と話しをしながら、二つ目の飛行機がもう一つのタワーに突っ込むのを見て、これが事故ではないのだと分かった瞬間から、言葉を失って電話を切ってしまった。一体何が起こったというのだろう??
私の家はしーんと静まり返っていて、車の音すらしない。座ることも出来ず、テレビの前でうろうろしていた。
なんとビルが崩壊した。
こんなことってあるんだろうか?テレビに映るストリートは見覚えのあるところばかりで、さらにうろたえる。Oh, my God! Oh, my God! 他に考えられる言葉があっただろうか?
余りに静かなので外に出て表通りまで出てみた。ジョージワシントン橋に行くその道は私の家のストリートから閉鎖、車が私のストリートに入って来れないようになっている。
NYで働いている知人たちの安否確認の電話をしながら、ニュースを見続けた。
殆どの知人の無事は確認されたが、この後何があるのか不安だった。
パールハーバーの映画が6月に公開されたばかりで、”Hoodie, この映画を見に行くときは、Tシャツに韓国人と書いていかんとね。”などと、面白くもない冗談を言ってくれたアメリカ人の友達の言葉を思い出して、神風特攻隊が破壊したワールドトレードセンターやペンタゴンを見ながら、こういった冗談を私たち日本人に言ってくれぬよう祈ったりもした。
学校から迎えに来るようにという電話がないまま、下校時になった。
みんな、そそくさと子供たちを連れて帰り、交わす言葉は今のところ見つからないという感じだった。
小学校の一年生、6歳の息子は消防車のサイレンがうるさくて、授業にならなかったという。
学校に面する道から南にたった3ブロック,風が東から西に吹いていたのでサイレンの音は私のところまで届かなかったらしい。消防署や救急車のみがNYに入れるように道を閉鎖したのだと分かった。おそらくこの辺りで火事があっても駆けつける消防車は一台も残っていなかったのではないだろうか?喧騒と静寂、本当に不思議な空気が流れていた。
学校側は子供たちに特別な説明はしなかったらしい。学校側はパニックを避けるために様子を伺っていたらしい。
ビルが倒れ、逃げている人々の画像を見た息子は”Awesome!"と叫んだ。確かによく出来た映画のようであった。しかし、そんなことは絶対外で言わないようにと、事情を説明した。
私がいつも通り出勤していたら、学校に迎えにも行けず、NJにいつ戻れるか分からず、どこかで立ち往生してしていたかもしれないとは、6歳の子供には分からないことだった。
ミッドタウン(30丁目)からジョージワシントン橋(178丁目)まで歩いたという人が居た。フェリーでハドソン川を渡るのに夜中まで待った人も居た。
私は日本からの来客のお陰で家でテレビを見ていた。
次の日は休校となり、うちの家では24時間、この報道だけ見ることを許されていて、息子はことの事情を否応でも把握しなければならなかった。

この日から長い間、私はNYに行けなかった。一人乗りの車でのNY入りは禁じられていたし、会社側はこんな最中に緊急の用事がない限り来なくていい、仕事はメールで送ればいいというし、私は悶々としながら子供たちが星条旗をもってマーチしているデザインを描いた。この辺りは星条旗で埋め尽くされたといっても過言ではないほど、どの家も星条旗を掲げた。そのせいか、星条旗のデザインしか考えられなかった。
3週間後、私はこのデザインを持ってフェリーで、NYに入った。勇士と讃えられた消防団たちが沢山乗り込んでいた。フェリーの船着き場にはMissingの張り紙が沢山張られていて、特に日本人がやたら目についた。家族で駐在の多くの日本人はNJに住んでいる。ファイナンシャル関係の多くはワールドトレードセンターに入っており、フェリーは直行便があるので、多くの日本人が利用していたに違いない。
一年後の9/11、去年を思い出すほど、天気はよかったが、強い強い風が吹いた。まるで竜巻のようだった。余りにいい気候なので窓を開けていると、細かい砂が家の中まで入って来た。
多くの思いが砂になって風とともに舞ったのだ。
こんなことはこの日だけだった。

行ってきますと仕事に出かけて、二度と戻らなかった多くの人のことを思い、私は私の限られた人生を思い、7年経った。
今日は晴れ上がって穏やかな秋日和、あの日を思い出す。

2008年9月5日金曜日

50%ジャパニーズ

まだ頭が50%日本のうちに日本で思ったことをを書いておこう。

日本に10年以上帰れなかった頃の私は,私の中の日本とアメリカが(言葉を含めて)相対していて,オーバーラップすることがなかった。日本は日本、アメリカはアメリカ。

最近、一年に2回も帰り、Eメール、スカイプで毎日のように友達と話し、随分、二つの国がオーバーラップして来たような気がする。
日本に着いて1週間は息子に日本語で喋り,友達に英語で喋っている回数が50%、次の週には25%、ついにパーフェクトになった頃、アメリカに戻り、今度は息子に日本語で喋り、”Mom、I don't understand what you say."と怒鳴られるのである。
母がアメリカに来た時は、アメリカ人のところに日本語でメッセージを残したらしい。
あの頃よりはずーっとましになったと思う。

歳をとって、老人ホームに入れられて,惚けた私は日本語でトロが食べたいとか、ウニが食べたいとかアメリカ人に言うんじゃないだろうか?
それまでになんとか息子と彼氏は日本語を学んで欲しいものである。
死に近づく親にせっせ,せっせと食べ物を私が運んだように、せめて、息子もそのぐらいのことを私にしてくれないだろうかと期待しているのだが、日本語が分からなければ、私の欲しいものも私の口に入らない。
これは真剣な問題である。

息子と彼氏を連れての帰国は、こういった私の計算がある。
息子だけでは当てにならないので彼氏も教育する!

息子は滞在中に日本語がやや上達しているようだ。私が教えると聞かないけれど、他人様のことは聞いているようである。やはり,2重出費でも、やかましくても、私の行きたいところに行けなくても、老後のことを考えて,息子を連れて帰ろう。

日本に帰る度に日本には感心させられる。カルチャーショックというやつ。

昔はちょっと変わったことをすると,みんなが見ると言ったものだが、今はみんなが変わっていて誰も気にもならない。
髪を金髪にしたり、付けまつげをしたり、昔は特別な職業の人だけがするオシャレだったけれど、いまや日本人文化になっている。みんながしている。付けまつげを付けてこってりお化粧した女の子たちは、みんな同じ顔に見える。その上、表情がない。

友達の誘惑で私も付けまつげをしてみた。簡単に顔を派手にしてくれるので悪くないなぁと思って毎日付けていると、息子はその"Doll face”をやめてくれと言った。"Doll face”(人形顔)とは言い当てているなぁと思った。
日本にいる時毎日着けていた付けまつげも、こちらに戻ると付けようなどという気はすっかりなくなってしまった。

アメリカの子がズボンを下げて,下着を見せているのをかっこいいと私は思わない。(うちの息子も下げているが。)ここまで下げてどうやって歩くの?って思うほど下げているのがアメリカ。スキー場で完全に下がったスキーパンツて飛んだりはねたり出来るってすごいと思ってる。パリに行ったときには,このだらしないファッションを見かけなかった。それなのに、この半年で,日本でもはこのファッション上昇ぎみ!
ねえちゃん、シミーズ見えてるよって、わざとスカートの裾からレースを見せている私に言ったおばちゃんを懐かしく思い出す。
そんなこと今の時代に言ったら殺されると現代人が思っていることを悲しく思う。
どうしてあぁいったおばちゃんを失ってしまったんだろう。

2008年9月4日木曜日

雨にも負けず、

3週間も留守にした家に戻るのは、不安な気持ちにさせる。
地下に水が溜まっているんではないか? 
なぜかというと、、、、、、
近所の人の話しによると、7年前から地下の水の流れが変わって私たちの家の下を走っている。雪解け時期なると水位が上がって地下に水が流れるようになった。私がこの家を買ったのは8年前である。毎春、水害に悩まれた私は、5年前に大枚はたいて,フレンチドレインと呼ばれる工事をした。フレンチドレインとは地下の壁づたいに堀を作り、水を一カ所に流れるようにし、溜まった水はポンプで下水道に流されるという仕組みだ。これで悩みが無くなったと楽観して4年目。ある夜、映画 ”Tsunami"タイで起こった津波の災害を映画にしたもの。5時間半という長い映画を見ながら,なんて気の毒なことだと悲しい思いをしながら見終えた。あぁ、洗濯するのを忘れたなぁと思いながら寝てしまい、洗濯機のある地下に行かなかった。朝起きて早速、洗濯をしに地下に降りると、私の地下は水位30センチの水害だった。ポンプがつぶれていたのである。母の危篤で帰国の三日前に刷り上がった作品は地下に、母の死で40日間日本に滞在した私は作品を片付ける暇もなかった。見事にほとんどの作品は水に浸っていた。
こんなことがあっただけに、帰る日に何度も繰り返して報道される東京、八王子の大雨での水害のニュースを見ていた私はその夜、私の地下が1メートルの水に浸っている夢を見た。

10年前になるが、人生真っ暗闇だった時、ある占い師(NY/リトルイタリーエリアに住むフランク)に見てもらったことがある。彼は霊感とタロットで私を読んだ。彼が喋っているとき決して口槍を入れてはならない。という訳だから、彼には私のインフォメーションは全くなかったにもかかわらず、次々と私が訊きたいことを話してくれた。テープに取るのは構わないというので,テープに取って何度も聴いてその内容を理解しようとした。
彼はジョンレノンの占い師でもあったと知ったのは、彼が雑誌に載った時のこと。
彼の言うには私には水害の相、母の影があるとのこと。さらに、赤ワインが身体に合わないこと。赤ワインのことを言われた時は,背筋がぞーっとした。確かに私は呑んベェのくせに赤ワインを飲むと気分が悪くなのである。95%まで彼の言ったことは現実化した。たった一つのことが未解決だが、人生はまだ続くので期待してその時を待っている。

などなどの理由で、水害で家が無くなっているかもしれないとまで思った。

家のドライブウエイに車を入れると家は健在、ホッと、たが、
雨でずっぽりぬれた大きな段ボールが家の前に置いてあった。
一週間ほど前に、アメリカの留守番電話のメッセージで、”留守で荷物を引き取る人がいないみたいなのですが,電話を下さい”とのことだったが、アメリカの営業時間と私が日本で起きている時間とが合わず電話が出来なかった。

彼らは荷物を置き去りにすることを選んだらしい。但し,段ボールの表面をスコッチテープで覆って。

荷物の中身を確かめる前に、まず私は地下に走った。
水はなかった。Thanks、God!
段ボールを開けると私の新しい生地のグループが入っていた。ラッキーにも水はスコッチテープのお陰で生地に滲みていなかった。
生地がプリントされると、染工場から5ヤードずつの生地が自動的に送られてくるようになっている。
染工場とは韓国からで、会社側がコントロール出来なかったので、家の前に置き去りとなったらしい。

さすがは、“めでたいグループ”!雨にも負けずと私の日本のラッキーアイテムプリント、招き猫、鯛、団扇で商売繁盛とアメリカ側は意欲的である。

2008年9月2日火曜日

気儘におやり!

3週間の日本滞在を終えて、3日前にここに戻った。時差ぼけや場所ぼけを克服する術として,私にかせた課題とは,ブログを書くこと。一日かけて,3週間の日本滞在内容を英語のブログにまとめた。
現在ある私のブログは仕事関係が読んでくれるように始めたのだが、何をどのようにマメに載せるか?まだまだ定かでなく、とにかく一ヶ月に一度は近況を載せるようにしている。仕事を絡めると書くことに限界がある。英語で書くということにも限界がある。私も古い人間に属するようになって、コンピューター媒体で自己表現をしていく年代についていくのは,やや難しい。息子がMy spaceやYouTubeに自分を載せていくことに躊躇いがないのは,やはり若い世代のなせる技なのか?仕事をしている私でさえ怠りがちなEメールのチェックも息子は日本にいる間中も怠ることなく、YouTubeで知り合ったというオーストラリアの子とメールを交わしていた。現在夢中になっているスケートボードの撮影と編集も怠ることなく、毎日YouTubeに記載。関心に値する姿勢である。
ブログを自分の言葉、日本語で書くことにした。
きっと、いろいろなことが気儘に書けるだろうと期待して。

私は年に2回、日本に戻っている。それは母の子宮癌の手術に始まった。その半年後には危篤と死。その半年後には納骨。その半年後には一周忌。その半年後、これが今年の帰国。初盆ではないが、去年はお盆にはアメリカに戻っていたので、今年は初盆として母を迎え入れた。すると,7月3日亡くなった父の17回忌であると気づいて、不公平のないようにと行なった。半年後は、母の3回忌である。何と,日本の国は死んだ者に優しいんだろう!
毎年日本に帰るなど、高額出費ゆえ出来なかった私が2回も帰って来ている。しかも,夏には息子共々、2重出費である。
一人っ子の私は両親をなくすことに,異常な不安を持って育った。残された物の処理をするのが何よりの苦痛であった。現在の私はその真っ只中である。
一人で片付ける。片付ける物に思い出がないはずはない。これほどの恐怖はあるだろうか?
母の死後、私の親友たちとそれを行なった。私はなんとラッキーなんだろう。親友たちは一時も私を一人にせず、私の苦痛を苦痛にしなかった。
私が目を通して捨てなくてはならないものばかりが屋根裏部屋、タンスと押し入れの中にまだまだ眠っている。短い帰国中の時間を涙で過ごす勇気がない。
”今のところ,奇麗に収まっているし、無理にせんでもええやん。”と言ってくれる友達の言葉に甘えている。

今回は母の着物を少しだけ詰めて戻った。