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2008年9月23日火曜日

景気と大統領選と、、。

1993年、日本経済はバブルの崩壊で下降の最中、私は日本を出た。バブルの体験のある人は覚えていると思うが、お金が歩いているみたいにだった。経費で気兼ねなく遊べた。2000万の家が8000万近くまでに跳ね上がったのだから、一般市民まで金持ち気分になった。一度そういう気分にされたから、落ちるとつらい。
その頃に父の納骨も済まし、人生に賭けをするにはこれ以上待てないなぁと20からの夢のアメリカ行きを結構、スーツケース一つで渡米。

”フリちゃん、アメリカに行くねんてぇ。”
”うん、行ったら、もう帰ってけえへん。”
”今度、フリちゃんがが帰ってくるときには、俺らみんな国に帰っているかもしれんなぁ。”
と言ったのは、仕事仲間の某氏。

私情もろもろで10年帰国出来なかった私は、それからの日本の事は詳しくない。コンピューターも持っていなかったし、電話代も今のように安くなかったし。
1995年に神戸の大震災。母の消息が分からず、丸一日、電話が通じるまで眠れなかった。経済が混乱しているときに、神戸に大地震だなんて!妊娠7ヶ月の私は日本に帰る事も出来ず、遠くから日本を案じていた。
日本経済の破綻は随分長く続いたようであったが、私は日本の経済とはいっさい切り離された生活をしていた。

おかげ様で私の属する業界は景気が良く,私が仕事に困るという事はなく、個人的に苦しい状態の時も仕事だけはあった。
15年ここに住んで,現在ほど不景気を強いられている気分を味わった事がない。私が頑張ればどうにかなるという問題ではない気がする。
ガソリンは13年前の4倍。燃費が上がるとそれに伴って全てが上がる。給料はそれに比例しないのだから,おのずと生活費に負担がかかる。不満があっても現在維持か?動くのか?動くとすればどの方向に動くのか?頭を使わなくてはならない。個人の努力にも限界がある。

ブッシュの当選、8年前からのアメリカ経済の下降は止めようがない。
私は元CIAの彼の父親が大嫌いだった。優等生として選ばれた地位を国外で自分たちの都合のいいように権威の乱用して指揮を執り、その行いがアメリカ人の末端に影響するなど考えないCIA。CIAあがりが国の総領になったら、あちこちから顰蹙を買うに決まっている。親がした事などちっとも分かっていない能無し息子が国の代表になるなんて気違いごとだ。と思った私の考えとは裏腹に、ブッシュは当選した。
ブッシュの裏方たちが、CIA wayで裏工作したとはいえ、自分の意志でブッシュに票を入れたアメリカ人は沢山いるのである。
しかも4年後に、再選するなんてとんでもない事が起こった。
2度の屈辱の大統領選挙。
一体、誰が彼に投票しているんだろうか???

日本いた時からの知り合いのアメリカ人の家族と懇意にしていて、2度めのブッシュの当選後怒りに満ちていた私は興味げに、
”あんたはどっちに入れたん?と5人姉妹のうちの一人に聞くと、
”ブッシュ”と答えた。この家族のほとんどは”ブッシュ”に入れたというのだ。
気を鎮めて、
”なんで?”と聞き返した。
”中絶に反対しているから。聖書には、イエスキリスト様は、、、云々”自分の子供を指差して、
”こんな罪もない子を殺すなんて,,,,云々”
言葉もなく退散して、じわじわとこの言葉にひどく憤りを感じた。
彼らはそのかわいい子たちが戦場で命を落とす事には関心がないのか???
こんな理由で入れた一票、一票がアメリカを堕落させるのだ。
彼女の夫は最近、職を変えた。そこの社長は元アーミーで戦争用品を扱っているのだそうで、儲かって仕方がないと仕事に満足しているようだ。ブッシュ様々だ。
イギリス人のアル中の夫と別れて3,4年間、彼らの誘いで教会に通い詰めた私は、このあたりから、とても冷静に”イエスキリスト様が、、、云々と話す人たちのお話を聞くになれなくなった。 
前夫(バックグランド−プロテスタント)とまだ一緒だった頃,彼が、この宗教心に執拗な家族に相反して、私のバックグランドに肩入れして、”仏教を学んでもいいなぁ。宗教をかざして戦争をしないし。”と言った事があったが、やや正しい。宗教対立はあっても、十字軍のような事は仏教ではしない、ーーと思う。

11月4日、あれから4年、待ちに待ったカウントダウンである。
ヒラリーvs オバマで国民は熱くなり、マッケイン&ペイリンvs オバマで景気最悪のアメリカは最大の選択を迫られる。リパブリカンかデモクラティックかという選択だけではなく、男か女か、白人か黒人かという単純な選択も含まれている。
もちろん、私はオバマを支援する。
オバマが政権を握ればアメリカはよくなるのか?ここまで悪くなったアメリカが一夜で変わるなどとは思われないが、将来に対する期待ぐらいはほしいものである。どうしても、ペイリンだけはごめん被りたい。ウウウウーーー背筋がぞっとする女だ。ヒラリーの女性票を確保するダミー。自分の家族さえ面倒見れない女。死にかけのマッケインの後継になるかもしれない女。マッケインに政権を渡すなんて、危険な要素ばかりだ。結局,ブッシュと同じで裏工作人たちにアメリカを引き渡す結果になる。
なぜマッケイン&ペイリンに入れたかと尋ねて、
”女の権威が、、、、云々”と誰かが答えたら、私はきっと切れてしまう。
女は強くなりすぎた。元々女は芯が強いのだから、わざわざ強調しなくてもいい。男がしっかりするべき時代になったと私は思う。女が表に出過ぎて意気地のない男を作っても仕方がない。(私がその代表だが、密かに強い男に憧れている。)
こんなときにペイリンの眼鏡がトレンドになり,日本製の眼鏡を1000ドル以上出して買える人間たちが一杯いる。
”黒人には投票したくなかった”などと誰かが言ったら、鏡を見ろと言ってやりたい。色で口のきき方,態度を変える、心が黒い白人が、5万といる。
大統領選に投票するアメリカ人の理由が真っ当であって欲しいのだが、おそらく私の期待をアメリカ人はまた裏切るに違いない。私のようなグリーンカード保持者には選挙権がない。
私の友達関係は100%アンチ、ブッシュ派。政治論になるとみんな興奮してくるので、しない方がいい。こういう話題は人を選んでしないと、何かと問題事になる!

教育,保険、ローン、就職、など一般の国民の負担は限りなくある。その上、戦争、宗教,人種差別,移民問題などのおまけ付きである。
退職プランでお金を貯めていても15−25%も投資率がダウンすると金額が大きければ大きいほど損害は大きく、のんびりと生活するなんて夢はどんどん遠のいていく。
昔は日本が何でも高すぎて,アメリカに来ると何でも安い気がしたが,今は全く逆で、ここは何でも途方もなく高い。税金、光熱費,医療費,必要不可欠なものが日本の何倍もする。
ニューヨークが好きというだけの理由でアメリカに留まるには充分でないなぁとため息をつく。

日本は長い不景気の中、不景気なりの景気を取り戻したから,お金を使わない事にすっかり慣れている。
仕事仲間の某氏は国に帰る事もなく、仕事の方向転換はしてもちゃんと生き残っているし、私の知り合いは皆、それなりの生活を保っている。実力のあるものはちゃんと生き残っている。
私も現在のアメリカの状態を深刻な事態と認識しながら、寝て好機を待つ訳にも行かず、小さな事をコツコツこなす毎日の積み重ねが結果に通じると信じて、出来る事をちゃんとこなすことに専念して、今日も忙しく一日を終える!

2008年9月17日水曜日

元気が出る偶然。

今日は仕事の打ち合わせの後、お友達のマークとTribeca Grill トライベッカグリルでお昼ご飯を食べた。
マークはこちらに来てすぐに仕事をした会社で知り合ってからの友達だから、かれこれ12年ぐらいの付き合いになる。NYに仕事に出る時は必ず連絡を取って、今日はお昼を一緒にするかどうか確認する。私が帰国した時、彼はハワイにいて、一ヶ月以上逢わなかったので、私たちのお気に入りのトライベッカグリルでお昼にしようとマークは言った。トライベッカグリルとはロバート デニーロが経営するレストラン。トライベッカとはずーと下(南)に降りたワールドトレードセンターに行くまでにある地域。私がNY市内に住むなら、迷わずこの辺りのロフトを探したい。
私はここのランチメニューが大好き。29ドルのセット。スープかサラダ、メインディッシュはパスタかサーモン、デザート付き。コーヒーは別途。素敵なレストランでこのメニューを29ドルでいただけるのは有り難い。マークは単品から選びたいと言って、スープとロブスターの品を頼んだ。9ドルと19ドルで28ドル。それに12ドルのホワイトワインを付け、最後にカプチーノで締めくくったので45ドル。私たちは年に何回かこの贅沢を楽しむ!

私たちがオーダーし終わった頃、3人のお客さんが入って来た。彼らのテーブルは私たちの斜め前で、6人がけの丸いテーブル。背の高い黒人が席に着いた後、トイレに行くのかこちらを向いて私の席の後ろに来た時、その顔を見て、、、、この顔知っていると思った。彼が通り過ぎてすぐ、私はマークに、”サミュエル(Samuel)、サミュエル、サミュエル”と繰り返すと、マークは”ジャクソン(Jackson)、ジャクソン”と言った。
”そうやんねぇ、サミュエル,ジャクソン(Samuel L. Jackson)やねぇ。”と言うと、”そうや、彼や!”とマークも言う。
その後,3人が現れ,サミュエル,ジャクソンの6人テーブルは楽しそうな雰囲気であった。
偉く有名な俳優がそこにいるというだけで,私たちはうきうきして、私たちの会話を楽しみながら御馳走を頂いた。

ここで有名人にあったのはこれが2回目。14年ほど前にハービー ケイテル(Harvey Keitel) が一人でテラスのテーブルでランチを召し上がっていらした!私は丁度、彼の最新作の映画 "ピアノ”を見たところだったんで、凄くドキドキした。(理由は映画を見ていただく見ていただくと分かります。)

7月の末、私の彼氏の息子の32歳の誕生日に3人で食事をすることになり、ウエストビレッジのPearl Oyster Bar パールオイスターバーと言うシーフード老舗に行った。予約出来ないので、席に着けるまで30分ほどかかったが、ビールを頼んで飲み始めていたし,じーっと見なくても目に入るところに有名人がいるので、そこにいるのが苦にならなかった。
最近の作品ではスパイーダーマン3、カメラマンで黒い悪の衣装に取り憑かれスパイダーマンの敵となり、最後に死んでしまう役のトーファ グレース(Topher Grace)がお友達とお食事中。
彼はテレビのドラマでアシュトン カッチャー(Ashton Kutcher )と出ていたので,アメリカでは名は知られている。

2年前、私がいつも車を入れる20丁目西の駐車場の前で3人のでかいボディーガードの真ん中でフェミニンに歩いているカルロス サンタナ(Carlos Santana)とすれ違った。
自慢げに元ギターリストだった彼氏に即座に電話!

母がアメリカに来た時、メトロポリタン美術館に行って閉館になった後,裏のセントラルパーに行くとダン フッターマン(Dan Futterman )が1歳ぐらいの子供を自転車に乗せて友達と話しをしていた。たまたま彼は母の後ろに立っていたので、母を写すフリをして彼に焦点をおいて隠し撮りした。彼の名前を聞いてもピンと来ないかもしれないが,彼はバードケージ(1996)ロビンウィリアムス、ゲイのカップルの息子役をした役者。カポーテ(Capote−2005)ではスクリープレーのライターでノミネートされた才覚ある男前である。

40になった時、息子の父親とはまだ夫婦で、お祝いにブロードウェイのプレイを見に行った。私たちの斜め前にボディーガードに囲まれたジュリアーニ(Rudolph W. Giuliani)が座っていた。NYを一掃した彼,9/11の時の彼、私は彼を敬愛していたので、目の前に彼がいるのが信じられなかった。

これは私の話しではないが、大好きな話しの一つ。
10年仕事をした前の仕事先は21丁目にあり、同じビルに芸能プロダクションがあるらしい。
カスタマーサビースのTがエレベーターに乗り込むと,そこにリチャード ギア(Richard Gere)がいた。エレベーターで2人きりになった彼女は、”ハイ、リッチ!”と言ったらしい。
彼はにっこりと笑みを返したらしい。嫌な顔をしなかったのだから、やっぱ、いい男だなぁと思った!みんな,私も含めて,こんな偶然を期待したが、エレベーターでリチャード ギアと2人きりになるなんて偶然は誰にもやってこなかった。

NYが面白いのは,自分も映画の一場面にいてもおかしくないよう一コマがあちらこちらにある事。この町であちらこちらで撮影があるが、ここに住むものは彼らの仕事の邪魔はしない。世界で最も撮影し易いところと云われるのは,ニューヨーカーの行儀の良さにある。

余談だが、前日に電柱に車をぶつけて落ち込んでた私もおいしいランチと実のあるミーティングで元気を取り戻した。NY様々であった。

2008年9月11日木曜日

7年目の9.11

ようやく一昨日、NYに出かけた。
仕事のアポイントのキャンセルで、帰国後なかなかNYに出かける機会がなかった。
ジョージワシントン橋から2分といっても、ここはNJ。ここにはマンハッタンの陰りが全くない。NJではマンハッタンのことをNYと呼ぶ。最初はどうしてマンハッタンといわないのかと?不思議に思ったが、州が違うのだから、NYでいいのである。マンハッタン以外は、ブルックリン、クィーンズ、ロングアイランドと地名で呼び、北の方のNY州はUp State of NYと言うのだからマンハッタンはNYでいい。今や私もマンハッタンに行くとは言わなくなった。

14年も続いた仕事関係を断ち切った時、私はNYに出かける機会がなくなったことを一番悲しんだ。
NYの景色を見ると、あぁ、ここが私の場所なんや!と自覚する。
天気のいい日は私の住んでいる地域は、エンパイアステートビルディング、摩天楼が見える。ハドソン川を挟んで州が違うなどとはとても思えないほど、近くに見える。

あの町に行かなくなったら、私はもうお仕舞だ!と思うほど、NYが好きである。
NYは仕事をするから面白いところだと思っている。それなのに3ヶ月間、私はNYでの仕事がなかった。
有り難いことにサンクスギビングからクリスマス、お正月、その後、私の誕生日辺りは日本に帰国していたし、バタバタと日が過ぎてくれたようにも思う。
仕事でNYに行かないという恐怖感がホリーディシーズンでやや救われたかもしれない。

目の前にあるNYになかなか行けなかったのは9.11の後のこと。
私はいつも火曜日に仕事先に顔を出していたが、日本からのお客さんが月曜日に来るということで、予定を変更した。
仕事の確認のため仕事先に9時に電話をした。Kは声を殺して、”テレビを見ているか?"と訊く。息子を学校に送ってさぁ仕事にかかろうかという時間にテレビを付けるはずがない。CNNを見ろというのでテレビを付けると、飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んでいる映像。カスタマーサービスのTの娘がこのビルで働いていて、彼女は娘の安否が分からずパニック状態、その最中に電話をかけた私にTを気遣ってひそひそ声で状況を説明した。なんてすごい事故なんだ。
それからは、私は電話を片手にテレビに釘付けとなった。母に私がNJに居ることを連絡した。母と話しをしながら、二つ目の飛行機がもう一つのタワーに突っ込むのを見て、これが事故ではないのだと分かった瞬間から、言葉を失って電話を切ってしまった。一体何が起こったというのだろう??
私の家はしーんと静まり返っていて、車の音すらしない。座ることも出来ず、テレビの前でうろうろしていた。
なんとビルが崩壊した。
こんなことってあるんだろうか?テレビに映るストリートは見覚えのあるところばかりで、さらにうろたえる。Oh, my God! Oh, my God! 他に考えられる言葉があっただろうか?
余りに静かなので外に出て表通りまで出てみた。ジョージワシントン橋に行くその道は私の家のストリートから閉鎖、車が私のストリートに入って来れないようになっている。
NYで働いている知人たちの安否確認の電話をしながら、ニュースを見続けた。
殆どの知人の無事は確認されたが、この後何があるのか不安だった。
パールハーバーの映画が6月に公開されたばかりで、”Hoodie, この映画を見に行くときは、Tシャツに韓国人と書いていかんとね。”などと、面白くもない冗談を言ってくれたアメリカ人の友達の言葉を思い出して、神風特攻隊が破壊したワールドトレードセンターやペンタゴンを見ながら、こういった冗談を私たち日本人に言ってくれぬよう祈ったりもした。
学校から迎えに来るようにという電話がないまま、下校時になった。
みんな、そそくさと子供たちを連れて帰り、交わす言葉は今のところ見つからないという感じだった。
小学校の一年生、6歳の息子は消防車のサイレンがうるさくて、授業にならなかったという。
学校に面する道から南にたった3ブロック,風が東から西に吹いていたのでサイレンの音は私のところまで届かなかったらしい。消防署や救急車のみがNYに入れるように道を閉鎖したのだと分かった。おそらくこの辺りで火事があっても駆けつける消防車は一台も残っていなかったのではないだろうか?喧騒と静寂、本当に不思議な空気が流れていた。
学校側は子供たちに特別な説明はしなかったらしい。学校側はパニックを避けるために様子を伺っていたらしい。
ビルが倒れ、逃げている人々の画像を見た息子は”Awesome!"と叫んだ。確かによく出来た映画のようであった。しかし、そんなことは絶対外で言わないようにと、事情を説明した。
私がいつも通り出勤していたら、学校に迎えにも行けず、NJにいつ戻れるか分からず、どこかで立ち往生してしていたかもしれないとは、6歳の子供には分からないことだった。
ミッドタウン(30丁目)からジョージワシントン橋(178丁目)まで歩いたという人が居た。フェリーでハドソン川を渡るのに夜中まで待った人も居た。
私は日本からの来客のお陰で家でテレビを見ていた。
次の日は休校となり、うちの家では24時間、この報道だけ見ることを許されていて、息子はことの事情を否応でも把握しなければならなかった。

この日から長い間、私はNYに行けなかった。一人乗りの車でのNY入りは禁じられていたし、会社側はこんな最中に緊急の用事がない限り来なくていい、仕事はメールで送ればいいというし、私は悶々としながら子供たちが星条旗をもってマーチしているデザインを描いた。この辺りは星条旗で埋め尽くされたといっても過言ではないほど、どの家も星条旗を掲げた。そのせいか、星条旗のデザインしか考えられなかった。
3週間後、私はこのデザインを持ってフェリーで、NYに入った。勇士と讃えられた消防団たちが沢山乗り込んでいた。フェリーの船着き場にはMissingの張り紙が沢山張られていて、特に日本人がやたら目についた。家族で駐在の多くの日本人はNJに住んでいる。ファイナンシャル関係の多くはワールドトレードセンターに入っており、フェリーは直行便があるので、多くの日本人が利用していたに違いない。
一年後の9/11、去年を思い出すほど、天気はよかったが、強い強い風が吹いた。まるで竜巻のようだった。余りにいい気候なので窓を開けていると、細かい砂が家の中まで入って来た。
多くの思いが砂になって風とともに舞ったのだ。
こんなことはこの日だけだった。

行ってきますと仕事に出かけて、二度と戻らなかった多くの人のことを思い、私は私の限られた人生を思い、7年経った。
今日は晴れ上がって穏やかな秋日和、あの日を思い出す。

2008年9月5日金曜日

50%ジャパニーズ

まだ頭が50%日本のうちに日本で思ったことをを書いておこう。

日本に10年以上帰れなかった頃の私は,私の中の日本とアメリカが(言葉を含めて)相対していて,オーバーラップすることがなかった。日本は日本、アメリカはアメリカ。

最近、一年に2回も帰り、Eメール、スカイプで毎日のように友達と話し、随分、二つの国がオーバーラップして来たような気がする。
日本に着いて1週間は息子に日本語で喋り,友達に英語で喋っている回数が50%、次の週には25%、ついにパーフェクトになった頃、アメリカに戻り、今度は息子に日本語で喋り、”Mom、I don't understand what you say."と怒鳴られるのである。
母がアメリカに来た時は、アメリカ人のところに日本語でメッセージを残したらしい。
あの頃よりはずーっとましになったと思う。

歳をとって、老人ホームに入れられて,惚けた私は日本語でトロが食べたいとか、ウニが食べたいとかアメリカ人に言うんじゃないだろうか?
それまでになんとか息子と彼氏は日本語を学んで欲しいものである。
死に近づく親にせっせ,せっせと食べ物を私が運んだように、せめて、息子もそのぐらいのことを私にしてくれないだろうかと期待しているのだが、日本語が分からなければ、私の欲しいものも私の口に入らない。
これは真剣な問題である。

息子と彼氏を連れての帰国は、こういった私の計算がある。
息子だけでは当てにならないので彼氏も教育する!

息子は滞在中に日本語がやや上達しているようだ。私が教えると聞かないけれど、他人様のことは聞いているようである。やはり,2重出費でも、やかましくても、私の行きたいところに行けなくても、老後のことを考えて,息子を連れて帰ろう。

日本に帰る度に日本には感心させられる。カルチャーショックというやつ。

昔はちょっと変わったことをすると,みんなが見ると言ったものだが、今はみんなが変わっていて誰も気にもならない。
髪を金髪にしたり、付けまつげをしたり、昔は特別な職業の人だけがするオシャレだったけれど、いまや日本人文化になっている。みんながしている。付けまつげを付けてこってりお化粧した女の子たちは、みんな同じ顔に見える。その上、表情がない。

友達の誘惑で私も付けまつげをしてみた。簡単に顔を派手にしてくれるので悪くないなぁと思って毎日付けていると、息子はその"Doll face”をやめてくれと言った。"Doll face”(人形顔)とは言い当てているなぁと思った。
日本にいる時毎日着けていた付けまつげも、こちらに戻ると付けようなどという気はすっかりなくなってしまった。

アメリカの子がズボンを下げて,下着を見せているのをかっこいいと私は思わない。(うちの息子も下げているが。)ここまで下げてどうやって歩くの?って思うほど下げているのがアメリカ。スキー場で完全に下がったスキーパンツて飛んだりはねたり出来るってすごいと思ってる。パリに行ったときには,このだらしないファッションを見かけなかった。それなのに、この半年で,日本でもはこのファッション上昇ぎみ!
ねえちゃん、シミーズ見えてるよって、わざとスカートの裾からレースを見せている私に言ったおばちゃんを懐かしく思い出す。
そんなこと今の時代に言ったら殺されると現代人が思っていることを悲しく思う。
どうしてあぁいったおばちゃんを失ってしまったんだろう。

2008年9月4日木曜日

雨にも負けず、

3週間も留守にした家に戻るのは、不安な気持ちにさせる。
地下に水が溜まっているんではないか? 
なぜかというと、、、、、、
近所の人の話しによると、7年前から地下の水の流れが変わって私たちの家の下を走っている。雪解け時期なると水位が上がって地下に水が流れるようになった。私がこの家を買ったのは8年前である。毎春、水害に悩まれた私は、5年前に大枚はたいて,フレンチドレインと呼ばれる工事をした。フレンチドレインとは地下の壁づたいに堀を作り、水を一カ所に流れるようにし、溜まった水はポンプで下水道に流されるという仕組みだ。これで悩みが無くなったと楽観して4年目。ある夜、映画 ”Tsunami"タイで起こった津波の災害を映画にしたもの。5時間半という長い映画を見ながら,なんて気の毒なことだと悲しい思いをしながら見終えた。あぁ、洗濯するのを忘れたなぁと思いながら寝てしまい、洗濯機のある地下に行かなかった。朝起きて早速、洗濯をしに地下に降りると、私の地下は水位30センチの水害だった。ポンプがつぶれていたのである。母の危篤で帰国の三日前に刷り上がった作品は地下に、母の死で40日間日本に滞在した私は作品を片付ける暇もなかった。見事にほとんどの作品は水に浸っていた。
こんなことがあっただけに、帰る日に何度も繰り返して報道される東京、八王子の大雨での水害のニュースを見ていた私はその夜、私の地下が1メートルの水に浸っている夢を見た。

10年前になるが、人生真っ暗闇だった時、ある占い師(NY/リトルイタリーエリアに住むフランク)に見てもらったことがある。彼は霊感とタロットで私を読んだ。彼が喋っているとき決して口槍を入れてはならない。という訳だから、彼には私のインフォメーションは全くなかったにもかかわらず、次々と私が訊きたいことを話してくれた。テープに取るのは構わないというので,テープに取って何度も聴いてその内容を理解しようとした。
彼はジョンレノンの占い師でもあったと知ったのは、彼が雑誌に載った時のこと。
彼の言うには私には水害の相、母の影があるとのこと。さらに、赤ワインが身体に合わないこと。赤ワインのことを言われた時は,背筋がぞーっとした。確かに私は呑んベェのくせに赤ワインを飲むと気分が悪くなのである。95%まで彼の言ったことは現実化した。たった一つのことが未解決だが、人生はまだ続くので期待してその時を待っている。

などなどの理由で、水害で家が無くなっているかもしれないとまで思った。

家のドライブウエイに車を入れると家は健在、ホッと、たが、
雨でずっぽりぬれた大きな段ボールが家の前に置いてあった。
一週間ほど前に、アメリカの留守番電話のメッセージで、”留守で荷物を引き取る人がいないみたいなのですが,電話を下さい”とのことだったが、アメリカの営業時間と私が日本で起きている時間とが合わず電話が出来なかった。

彼らは荷物を置き去りにすることを選んだらしい。但し,段ボールの表面をスコッチテープで覆って。

荷物の中身を確かめる前に、まず私は地下に走った。
水はなかった。Thanks、God!
段ボールを開けると私の新しい生地のグループが入っていた。ラッキーにも水はスコッチテープのお陰で生地に滲みていなかった。
生地がプリントされると、染工場から5ヤードずつの生地が自動的に送られてくるようになっている。
染工場とは韓国からで、会社側がコントロール出来なかったので、家の前に置き去りとなったらしい。

さすがは、“めでたいグループ”!雨にも負けずと私の日本のラッキーアイテムプリント、招き猫、鯛、団扇で商売繁盛とアメリカ側は意欲的である。

2008年9月2日火曜日

気儘におやり!

3週間の日本滞在を終えて、3日前にここに戻った。時差ぼけや場所ぼけを克服する術として,私にかせた課題とは,ブログを書くこと。一日かけて,3週間の日本滞在内容を英語のブログにまとめた。
現在ある私のブログは仕事関係が読んでくれるように始めたのだが、何をどのようにマメに載せるか?まだまだ定かでなく、とにかく一ヶ月に一度は近況を載せるようにしている。仕事を絡めると書くことに限界がある。英語で書くということにも限界がある。私も古い人間に属するようになって、コンピューター媒体で自己表現をしていく年代についていくのは,やや難しい。息子がMy spaceやYouTubeに自分を載せていくことに躊躇いがないのは,やはり若い世代のなせる技なのか?仕事をしている私でさえ怠りがちなEメールのチェックも息子は日本にいる間中も怠ることなく、YouTubeで知り合ったというオーストラリアの子とメールを交わしていた。現在夢中になっているスケートボードの撮影と編集も怠ることなく、毎日YouTubeに記載。関心に値する姿勢である。
ブログを自分の言葉、日本語で書くことにした。
きっと、いろいろなことが気儘に書けるだろうと期待して。

私は年に2回、日本に戻っている。それは母の子宮癌の手術に始まった。その半年後には危篤と死。その半年後には納骨。その半年後には一周忌。その半年後、これが今年の帰国。初盆ではないが、去年はお盆にはアメリカに戻っていたので、今年は初盆として母を迎え入れた。すると,7月3日亡くなった父の17回忌であると気づいて、不公平のないようにと行なった。半年後は、母の3回忌である。何と,日本の国は死んだ者に優しいんだろう!
毎年日本に帰るなど、高額出費ゆえ出来なかった私が2回も帰って来ている。しかも,夏には息子共々、2重出費である。
一人っ子の私は両親をなくすことに,異常な不安を持って育った。残された物の処理をするのが何よりの苦痛であった。現在の私はその真っ只中である。
一人で片付ける。片付ける物に思い出がないはずはない。これほどの恐怖はあるだろうか?
母の死後、私の親友たちとそれを行なった。私はなんとラッキーなんだろう。親友たちは一時も私を一人にせず、私の苦痛を苦痛にしなかった。
私が目を通して捨てなくてはならないものばかりが屋根裏部屋、タンスと押し入れの中にまだまだ眠っている。短い帰国中の時間を涙で過ごす勇気がない。
”今のところ,奇麗に収まっているし、無理にせんでもええやん。”と言ってくれる友達の言葉に甘えている。

今回は母の着物を少しだけ詰めて戻った。