ようやく一昨日、NYに出かけた。
仕事のアポイントのキャンセルで、帰国後なかなかNYに出かける機会がなかった。
ジョージワシントン橋から2分といっても、ここはNJ。ここにはマンハッタンの陰りが全くない。NJではマンハッタンのことをNYと呼ぶ。最初はどうしてマンハッタンといわないのかと?不思議に思ったが、州が違うのだから、NYでいいのである。マンハッタン以外は、ブルックリン、クィーンズ、ロングアイランドと地名で呼び、北の方のNY州はUp State of NYと言うのだからマンハッタンはNYでいい。今や私もマンハッタンに行くとは言わなくなった。
14年も続いた仕事関係を断ち切った時、私はNYに出かける機会がなくなったことを一番悲しんだ。
NYの景色を見ると、あぁ、ここが私の場所なんや!と自覚する。
天気のいい日は私の住んでいる地域は、エンパイアステートビルディング、摩天楼が見える。ハドソン川を挟んで州が違うなどとはとても思えないほど、近くに見える。
あの町に行かなくなったら、私はもうお仕舞だ!と思うほど、NYが好きである。
NYは仕事をするから面白いところだと思っている。それなのに3ヶ月間、私はNYでの仕事がなかった。
有り難いことにサンクスギビングからクリスマス、お正月、その後、私の誕生日辺りは日本に帰国していたし、バタバタと日が過ぎてくれたようにも思う。
仕事でNYに行かないという恐怖感がホリーディシーズンでやや救われたかもしれない。
目の前にあるNYになかなか行けなかったのは9.11の後のこと。
私はいつも火曜日に仕事先に顔を出していたが、日本からのお客さんが月曜日に来るということで、予定を変更した。
仕事の確認のため仕事先に9時に電話をした。Kは声を殺して、”テレビを見ているか?"と訊く。息子を学校に送ってさぁ仕事にかかろうかという時間にテレビを付けるはずがない。CNNを見ろというのでテレビを付けると、飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んでいる映像。カスタマーサービスのTの娘がこのビルで働いていて、彼女は娘の安否が分からずパニック状態、その最中に電話をかけた私にTを気遣ってひそひそ声で状況を説明した。なんてすごい事故なんだ。
それからは、私は電話を片手にテレビに釘付けとなった。母に私がNJに居ることを連絡した。母と話しをしながら、二つ目の飛行機がもう一つのタワーに突っ込むのを見て、これが事故ではないのだと分かった瞬間から、言葉を失って電話を切ってしまった。一体何が起こったというのだろう??
私の家はしーんと静まり返っていて、車の音すらしない。座ることも出来ず、テレビの前でうろうろしていた。
なんとビルが崩壊した。
こんなことってあるんだろうか?テレビに映るストリートは見覚えのあるところばかりで、さらにうろたえる。Oh, my God! Oh, my God! 他に考えられる言葉があっただろうか?
余りに静かなので外に出て表通りまで出てみた。ジョージワシントン橋に行くその道は私の家のストリートから閉鎖、車が私のストリートに入って来れないようになっている。
NYで働いている知人たちの安否確認の電話をしながら、ニュースを見続けた。
殆どの知人の無事は確認されたが、この後何があるのか不安だった。
パールハーバーの映画が6月に公開されたばかりで、”Hoodie, この映画を見に行くときは、Tシャツに韓国人と書いていかんとね。”などと、面白くもない冗談を言ってくれたアメリカ人の友達の言葉を思い出して、神風特攻隊が破壊したワールドトレードセンターやペンタゴンを見ながら、こういった冗談を私たち日本人に言ってくれぬよう祈ったりもした。
学校から迎えに来るようにという電話がないまま、下校時になった。
みんな、そそくさと子供たちを連れて帰り、交わす言葉は今のところ見つからないという感じだった。
小学校の一年生、6歳の息子は消防車のサイレンがうるさくて、授業にならなかったという。
学校に面する道から南にたった3ブロック,風が東から西に吹いていたのでサイレンの音は私のところまで届かなかったらしい。消防署や救急車のみがNYに入れるように道を閉鎖したのだと分かった。おそらくこの辺りで火事があっても駆けつける消防車は一台も残っていなかったのではないだろうか?喧騒と静寂、本当に不思議な空気が流れていた。
学校側は子供たちに特別な説明はしなかったらしい。学校側はパニックを避けるために様子を伺っていたらしい。
ビルが倒れ、逃げている人々の画像を見た息子は”Awesome!"と叫んだ。確かによく出来た映画のようであった。しかし、そんなことは絶対外で言わないようにと、事情を説明した。
私がいつも通り出勤していたら、学校に迎えにも行けず、NJにいつ戻れるか分からず、どこかで立ち往生してしていたかもしれないとは、6歳の子供には分からないことだった。
ミッドタウン(30丁目)からジョージワシントン橋(178丁目)まで歩いたという人が居た。フェリーでハドソン川を渡るのに夜中まで待った人も居た。
私は日本からの来客のお陰で家でテレビを見ていた。
次の日は休校となり、うちの家では24時間、この報道だけ見ることを許されていて、息子はことの事情を否応でも把握しなければならなかった。
この日から長い間、私はNYに行けなかった。一人乗りの車でのNY入りは禁じられていたし、会社側はこんな最中に緊急の用事がない限り来なくていい、仕事はメールで送ればいいというし、私は悶々としながら子供たちが星条旗をもってマーチしているデザインを描いた。この辺りは星条旗で埋め尽くされたといっても過言ではないほど、どの家も星条旗を掲げた。そのせいか、星条旗のデザインしか考えられなかった。
3週間後、私はこのデザインを持ってフェリーで、NYに入った。勇士と讃えられた消防団たちが沢山乗り込んでいた。フェリーの船着き場にはMissingの張り紙が沢山張られていて、特に日本人がやたら目についた。家族で駐在の多くの日本人はNJに住んでいる。ファイナンシャル関係の多くはワールドトレードセンターに入っており、フェリーは直行便があるので、多くの日本人が利用していたに違いない。
一年後の9/11、去年を思い出すほど、天気はよかったが、強い強い風が吹いた。まるで竜巻のようだった。余りにいい気候なので窓を開けていると、細かい砂が家の中まで入って来た。
多くの思いが砂になって風とともに舞ったのだ。
こんなことはこの日だけだった。
行ってきますと仕事に出かけて、二度と戻らなかった多くの人のことを思い、私は私の限られた人生を思い、7年経った。
今日は晴れ上がって穏やかな秋日和、あの日を思い出す。
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