3週間の日本滞在を終えて、3日前にここに戻った。時差ぼけや場所ぼけを克服する術として,私にかせた課題とは,ブログを書くこと。一日かけて,3週間の日本滞在内容を英語のブログにまとめた。
現在ある私のブログは仕事関係が読んでくれるように始めたのだが、何をどのようにマメに載せるか?まだまだ定かでなく、とにかく一ヶ月に一度は近況を載せるようにしている。仕事を絡めると書くことに限界がある。英語で書くということにも限界がある。私も古い人間に属するようになって、コンピューター媒体で自己表現をしていく年代についていくのは,やや難しい。息子がMy spaceやYouTubeに自分を載せていくことに躊躇いがないのは,やはり若い世代のなせる技なのか?仕事をしている私でさえ怠りがちなEメールのチェックも息子は日本にいる間中も怠ることなく、YouTubeで知り合ったというオーストラリアの子とメールを交わしていた。現在夢中になっているスケートボードの撮影と編集も怠ることなく、毎日YouTubeに記載。関心に値する姿勢である。
ブログを自分の言葉、日本語で書くことにした。
きっと、いろいろなことが気儘に書けるだろうと期待して。
私は年に2回、日本に戻っている。それは母の子宮癌の手術に始まった。その半年後には危篤と死。その半年後には納骨。その半年後には一周忌。その半年後、これが今年の帰国。初盆ではないが、去年はお盆にはアメリカに戻っていたので、今年は初盆として母を迎え入れた。すると,7月3日亡くなった父の17回忌であると気づいて、不公平のないようにと行なった。半年後は、母の3回忌である。何と,日本の国は死んだ者に優しいんだろう!
毎年日本に帰るなど、高額出費ゆえ出来なかった私が2回も帰って来ている。しかも,夏には息子共々、2重出費である。
一人っ子の私は両親をなくすことに,異常な不安を持って育った。残された物の処理をするのが何よりの苦痛であった。現在の私はその真っ只中である。
一人で片付ける。片付ける物に思い出がないはずはない。これほどの恐怖はあるだろうか?
母の死後、私の親友たちとそれを行なった。私はなんとラッキーなんだろう。親友たちは一時も私を一人にせず、私の苦痛を苦痛にしなかった。
私が目を通して捨てなくてはならないものばかりが屋根裏部屋、タンスと押し入れの中にまだまだ眠っている。短い帰国中の時間を涙で過ごす勇気がない。
”今のところ,奇麗に収まっているし、無理にせんでもええやん。”と言ってくれる友達の言葉に甘えている。
今回は母の着物を少しだけ詰めて戻った。
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